「じわっ」の理由と「必死さ」の変容

「じわっ」の理由と「必死さ」の変容 (5/11/2017)

期末試験の週間は、いつも「じわっ」とくる。もうバークリーで教え始めて7年が過ぎたというのに、未だに、である。

7年目最後の授業は、つい10分ほど前に終わった。まだ温もりのある静かな興奮冷めやらぬ瞬間を、きちんと記録しておこう。そう思って筆を(正確にはキーボード、なのだが)とることにした。

思えば、2001年に学生として渡米して以来、2013年まで自身の公式ウェブサイトにコラムを書き続けてきた。始めの7、8年ぐらいは割とマメに更新していて、実はページビューの数も相当高かったのだが、ここ数年はまったく筆をとってこなかった。そこには様々な理由があったのだが、月並みに理由を述べてしまえば、「忙しかった」ことにかまけていたし、挑戦者だった20代から、挑戦を受けて立つ30代後半になって、「迂闊なことは書けないな」という気恥ずかしさもあった。

いずれにしても、「頑張ってるつねくん(旧芸名、かつ本名)を応援したい」という声にそれなりに応えていたであろう「頑張ってるつねくん」丸出しのコラムの持つ意味が、年齢や立場の変化を経て本質的に変化してしまったことは事実である。20代の頃はそれこそ「しゃかりきになって」頑張っていたし、30代前半もそうだった。でも、40代に突入した今は、良かれ悪しかれ必死になるようなことはなくなったのだ。必死になることが気恥ずかしくなったのかもしれないし、必死になるだけの体力がなくなったのかもしれない。そして、認めてしまうと悔しい気もするが、実際のところ、その両方ともが大きな理由なのだろう。

必死になることは、いいことだ。人生のある一定の時期においては。ただ、いろんな生き方があるとは思うが、人は大抵ある一定の時期に差し掛かると、若い頃ほどには必死でなくなる。「いい歳して必死こいちゃって」という周りの冷めた目があるからかもしれないし、上に述べた僕の場合のような理由かもしれないが、多くの場合は「あまり必死にならなくても生きていけるから」というのが妥当な答えだと思う。

僕も、必死だったのは、「ミュージシャンとして生きていけるか否か」というステージにおいてが最も顕著で、次に「ミュージシャンとして第一線で戦っていけるか」というステージにおいても結構顕著だったと思う。その時代に必死にならずして、いまの自分はなかったし、21歳になってやっと「ミュージシャンになろう」と思った「音楽修行時代後発隊」の自分は、いま振り返れば「髪の毛振り乱して」といった表現がぴったりなぐらい、必死に頑張っていたと思う。

では、必死になっていないいまの自分は、「イケていない」のだろうか。

おそらく、僕は善くも悪くも図々しくなってしまったのだと思う。きっと昔は、自分が「イケているかイケていないか」ということがとても重要だったのだ。でもいまは、他人から見て「イケて」いようが「イケて」いなかろうが、「どっちでもええやん」と思うようになった。むむむ。「不惑」とはまさによく言ったものであるし、あるいは「おっちゃん」「おばちゃん」が齢とともに図々しくなる構図に、自分もぴったりハマっているだけなのかもしれない。

別に「昨日まで必死だったけど、今日からは必死ではありません。バイバイ、必死さん!」という境界線があったわけではなく、「必死度」は年々緩やかな下降線をたどってきたのだろう。ただ、図々しくなってしまったことを前提に書かせてもらえるならば、他人がどう思おうが、「必死に」なっていないいまの自分は、別に嫌いではない。 なぜなら、「必死に」なったからといって結果が伴うわけではなく、むしろ40代を迎え、「必死」ではなく、肩の力を抜いてコツコツやることを覚えてからのほうがいい結果を生み出していることもたくさんあるからだ。

ただし、である。ここ数年の僕は、音楽のキャリアに対してちょっと手を抜いてやしないだろうか。

素直に認めます。答えは「イエス」である。はい、手を抜いていました。

でも、そこに大きな理由があり、「手を抜いて」きたことに後悔は全くない。もちろん、「手を抜いてきた」といっても、最低限のことはしっかりしてきたし、おそらく僕の「手を抜く」の基準は比較的高いところにあるので、緩やかながらもきちんと成長はしてきたという自負はある。でもここ数年は、音楽よりも優先したいことがあったし、それは僕の人生にとり、とてつもなく大切なことだったのだ。

2012年に長女、2014年に次女が産まれ、僕は子育てに向き合ってきた。そして、恥を恐れずにいえば、僕はそれこそ「必死に」子育てをしてきたと思う。日本では「イクメン」だのなんだのと騒がれているが、正直なところ僕はそんな風潮を冷ややかな目で見ていた。なぜなら、「母親並み」、そして妻がフルタイムで働いていた時期はそれ以上に子育てをしてきた僕にとって、「イクメン」と持ち上げられている人たちに関する記事は、「所詮そんな程度か」というものが大半だったからだ。

だってそうじゃないですか、世の中のお母さん方!子育てって、命がけですよね?何をしても泣き止まない娘たちにイライラしたり、明日ライブがあるのになんでこんな時間にオムツ替えなあかんねん、と愚痴りたくなったり、やっと用意が出来て出かける間際に、綺麗なお洋服にジュースをこぼして「着替えるー」と泣かれてみたり。ひとりで小さなふたりの娘を海や行楽地に連れていって、現地でママ友と合流するまでの時間、「ああ、お願いだからいまう○こしないでくれよ」と祈ったり。

そう、僕は必死でした。そして、子育てに必死な僕は、音楽はそれなりに手抜きして、以前にも増して「コツコツ型」、「出来るときになるべく要領よくやる型」に切り替えざるを得なかったのである。

さて、一見話が相当それてしまったようだが、今日の授業の話に戻ろう。なぜ学期末がいつも「じわっ」とくるのか。それは、僕が受け持つほとんどの授業で、(最後の授業が試験の場合を除いて)最後の授業が終わると学生たちから拍手が起こり、握手を求める行列が起こり、なかにはハグまで求めてくる学生もいたりするからだ。

僕の授業は、バークリーの中でもとても厳しいことで知られている(らしい)。なぜ厳しいか、というと、ミュージシャンとして(それも異国の地で)ご飯を食べていくことの厳しさを、身にしみて実感しているからである。この分野では世界最高峰の大学のひとつであるバークリーで取得する、実践的な作編曲、プロデュースの授業で提出される課題が、「ヘナチョコ」なものであっていいワケがない。現実社会で「午後4時からレコーディング開始」となったらそれまでにすべてが準備されていないと仕事になり得ないように、どんなに優れた課題であっても、1分1秒たりとも遅れて提出されていいワケがない。

だから、どんなにいい性格であろうと、奨学金をたくさん貰っていようと、クオリティの低いものは平気で「F(Fail)」を与えるし、どんなにいい作品であろうと、提出が1分でも遅れたら受け取らない、というポリシーを貫いているのだ。提出されたものは、「これでもか」というぐらい重箱の隅をつついてスコアもレコーディングもチェックして「赤」を入れる。なぜなら、実際に世の中に送り出される作品も、プロであるならば皆そうやって重箱の隅をつつきまくって細部を詰めているからである。

僕は、教壇に立ち始めてから7年の間、自分が「教える側」だと思ったことはほとんどない。むしろ、同業者として「プロはこうあるべき」という姿勢や技術を、学生たちと共有する作業だ、と思って向き合ってきた。だから、学生たちに「リーの音楽はイケてる」と思ってもらえなければ負けだと思って戦ってきたし、学生たちに「あれ、リー先生、ほんと分かってるのかいな?」と思われるようなことがあってはいけない。だから、学生たちの何倍も努力してきたし、「手を抜いた」と自覚していた時代でも、おそらく学生たちの何倍も勉強していたと思う。

そんな厳しい僕とは、もちろん全ての学生が合うわけではないだろう。ただ、幸いなことに、教え始めて数年ぐらいしてから「どうやらあいつは厳しいらしい」という噂が広まり、それを分かった上で敢えて挑んでくるような学生しか僕の授業は受講しなくなってきたため、多くの学生は僕の授業に登録した時点で、それなりの免疫があるようなのだ。

しかし、それを前提にした上でも、おそらく僕は相当厳しいのである。書くスペースが足りないので詳細は省くが、おそらく学期中、僕に対して「チキショー、この野郎」と思ったことのある学生は、ひとりやふたりではないはずである。そして、長年教えていると、言葉には出さなくても誰が「チキショー、この野郎」を秘めているかは、こちらには丸見えなのだ。

にもかかわらず、である。その「チキショー、この野郎」を秘めている学生も含めて、学期末の最後の授業の後には、多くの学生が列をなして握手を求めてくるのだ。そして、「チキショー、この野郎」の学生たちが「僕の成績は必ずしもよくなかったかもしれません。でも本当に勉強になりました。ありがとうございます。」「厳しいこと言ってもらえたおかげで、成長できました。」とわざわざ言いに来てくれ、笑顔で去っていくのである。学期のはじめは僕のことを品定めするようにふんぞり返って座っていた学生が、最後は熱烈なハグまでして帰っていくのである。これに「じわっ」と来ないわけがない。

思えば、僕がここ数年子育てに没頭してきたことは、意外にもいい意味で授業にも反映されてきたのかもしれない。厳しいだけでは子供も学生もついてこない、というのは共通する事実だ。そして、これが重要なのだが、優しいだけでも彼らはついてこないのだ。僕は、いわゆるモンスターペアレンツではないし、頼まれてもそんなふうにはなれない。ただ、自分の子供たちのことは心から愛している。愛しているからこそ、安全に関わるようなこと、社会に出て行く上で礼を欠くようなことをしたときの親としての反応は、わりと厳しく言うほうだと思う。そしてその姿勢は、実は授業においても、まったく共通しているのだ。

僕は、バークリーにくる学生たちが好きだ。かつて自分もそうであったように、遠い国や地域から、世界に通用するミュージシャンになることを夢見て、様々な障害を乗り越えて意気揚々とやってくる。そのエネルギーと好奇心たるや、まるで2歳児のそれに匹敵する、といっても過言ではない。だからこそ、僕は彼らに厳しい。なぜなら、僕は彼らに成功してほしいからだ。音楽で食べていけるということは、こんなに素晴らしいことなんだよ、そのためには、人の何倍も努力しなくちゃいけないんだよ、としっかり伝えたいからだ。

そんな思いを持って届けた授業を通して、学期初めとは比べものにならない出来の作品をみんなで聴いたあと、「See you around!(またどこかで会いましょう)」と言って別れたとき、そして列をなす学生たちの握手やハグを受け止めたとき、僕はつい「じわっ」としてしまうのである。そう、バークリーで初めて教鞭をとってから、7年が経ったいまでも。

珍獣上陸

バークリー音楽大学で教え始めてから、3年半が経った。その間、夏学期も休むことなく教えて来たので、すべて合わせると10学期分、つまり5年分教えた計算になる。

はじめのうちは試行錯誤だった「教授業」も、最近はだいぶ慣れて来た。もう何度も同じ授業を教えて来ているけれど、毎回、前回の反省を基に詳細を詰めたり、常に新しいアプローチを取り入れたりしているので、飽きることはない。

バークリーでの仕事を始めるにあたり、僕にとってはどこの科で教えるか、ということがとても大事だった。バークリーで教えるということは、やはり相当なステータスらしく、「どこの科でもいいから教えたい」という人々は五万といる。でも、僕の場合は自分の「ドンピシャ」なエリア、つまり作編曲とプロデュース、という内容でなければ教えるつもりはなかった。

つくづく僕はラッキーだったのだと思うが、そもそも僕が国際関係額の分野からミュージシャンに方向転換した際の最大の理由が「仕事に費やす時間がすべて自分のキャリアに関わるスキルアップに結び着く職業」を選びたかったからなのだ。信念を曲げないことは必ずしも簡単なことではなく、やせ我慢も多々してきたと思うが、結果的には我慢勝ちだったのだ、といったら奢りだろうか。

1年ぶりに日本に向かう飛行機があと1時間半で東京に着く、という折に、僕はつくづく日本が大好きなんだなあ、と皮膚で感じた 。そしてふと、その大好きな日本とその音楽シーンに、ようやく本当の意味で自信を持って還元できる人材になったのではないか、と思った。

これまでも、留学した際の初心、「米国の地で学んだことを日本に還元する」ということは忘れずに、毎回帰国する度にワークショップなどを通して伝えてきたつもりではある。けれど、今回日本で行われるワークショップの準備をしている段階で「ああ、こういうことって昔はうまく伝えられなかったよなあ。(自分でいうのも何だが)これは参加者にとって、これまでにないぐらい有意義な内容になりそうだなあ。」と確信したのである。

こういう内容を提供出来るようになったのは、ほかでもない、毎日相当厳しい環境の中で鍛えられてきたからだ。米国で、世界中から集まる優秀なミュージシャンたちと日々バトルを繰り広げ、世界中から集まる相当アクの強い生徒達を納得させる授業を展開するために勉強と創意工夫を続け、それが積み重なって今がある。

現在バークリーで教える教授陣は600人近くいるが、うち日本人は5人しかいない。しかもあとの4人は演奏系の科なので、5人の中でも作編曲を教えているのは僕だけだ。そんな「珍獣」を見物しに、今回のワークショップにも足を運んでいただけたら、と思っている。

<お知らせ>

12月29日、1月4、5日、および12日に限定して各地で行われるワークショップ。詳細をウェブにアップするのが相当遅くなってしまって本当に申し訳ないのですが、まだ都合がつけられる方は、是非学びに来て下さい。詳しくは「Events」ページをご覧下さい。

 

 

公式ウェブサイト全面リニューアル

2006年に最後の全面リニューアルをして以来、実に7年間の間、マイナーアップデートを除いては全面的なアップデートをして来ませんでした。

7年といえば、インターネットの世界ではひと昔どころかふたつもみっつも昔の話。新しいウェブサイトは、デザインをシンプルに、でもコンテンツは増やしやすいように、をテーマに作ってみました。

まだコンテンツはさほど多くありませんが、ナビゲートのし易さを保ちつつ、徐々にコンテンツを増やしていきたいと思っています。新しいサイトも、どうぞ宜しくお願いします。

2013年秋
リー・アベ

S&R ワシントン賞

先週の土曜日、ワシントンD.C.にて、S&Rワシントン賞の授賞式が
行われ、2012年度受賞者のひとりとして参列してきました。

今回の受賞者は、ビオラ奏者、ピアニスト、ダンサー、そして僕
(作曲家)という顔ぶれだったのですが、すべての受賞者が20分
間の演奏を披露し、僕はチェロと歌とのトリオ(ちなみに僕はピアノ
です)で3曲演奏してきました。

3曲中2曲は今回のための書き下ろしで、仕上がったのも本番3週
間前と、練習も時間との闘いでしたが、結果的にはなかなか好評で、
なによりほっとしました。ちなみに、そのうちの一曲は、今回の
ボストンマラソンの事件に立ち向かうボストニアンたちの不屈な精
神にインスパイアされて作った曲(「Dancing in Beantown」)でし
た。

またコラムでも書く予定ですが、受賞者のみなさんや過去の受賞者
のみなさん、そして財団の設立者の方々をはじめ、素晴らしい人々
との出会いを通して、大きな刺激を受けてきました。いやー、大事
ですね、こういう刺激って。

今回の受賞を通して、またひとつ上のステージに行けるよう、今後
は一歩上の努力をしていこうと、強く思っています。日本のみなさ
んにも、近々新しい音を届けられるといいなあ。

(2013.05.25)