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「You Are A Good Man」 (08/28/2018)

「You Are A Good Man」 (08/28/2018)

昔はひと月に一度はコラムを書いていたというのに、前回書いてから、早くも一年以上が経過してしまった。言い訳になってしまうけれど、実は去年の10月、スウェーデンに行った直後にもコラムを書いていたのだ。でも、三分の二ぐらい書いたところで時間切れになり、そのまま放置していたら「書き立てほやほや感」がなくなってしまい、結局お蔵入り、というもったいないことをしてしまったのである。ああ、スウェーデンでリアルグループの人たちと過ごした貴重な時間、ちゃんと書き残しておきたかったのになあ、なんていうのは後の祭。

先日、村上春樹さんが書いた旅行記を読んでいたら、「あとがき」の中で彼が「旅行記ばかりは旅行の直後に気合を入れて書かないと、なかなか生き生き書けないもの」と書いていたことに、思わず膝を打った。何も、この不定期コラムは旅行記を書こうと思って始めたわけではなく、アメリカに活動拠点を移した2001年以来、その時々に強く何かを感じたときに執筆してきたワケなのだけど、やはり旅をすると強く何かを感じることが多く、従って旅をした直後に書くことも多々あったのである。

そうだよなあ、やはりコラムは生き生きと熱いうちに書かなくては、というわけで、今回は中国、広州での仕事からボストンに向かう機内でこのコラムを書いてみた。ボストンに着くまでに書き終わるかなあ。さて。

広州での仕事は、5日間にわたる音楽の集中夏期講習と、最後に現地のアーティストや参加者たちとジョイントでコンサートをする、というなかなか濃い内容だった。そして、広州での仕事が始まる前日には、1日だけ温州という街に飛び、音楽テクノロジーについて短いワークショップもしてきた。

中国本土は二度目だったのだが、この数年の、中国の方々の音楽教育熱は凄まじいものがある。僕が教鞭をとっているバークリー音楽大学での留学生人口でも、数年前から遂に中国人の数がトップになり(僕が学生だった頃は日本人が一番多かったっけ)、年々さらに増え続けている。

前回の訪中は、バークリーの入学オーディションの試験官として上海と西安に行ったのだが、それぞれの街で短い演奏やワークショップをした際、僕の仕事を気に入ってくれた方々がいて、今回はバークリーとは関係なく、個人的にふたつの街に呼んでいただいた。ひとつの仕事がまたひとつの仕事を呼ぶ、という嬉しいつながりだった。

余談になるが、7月の終わりに1週間ほど日本に仕事で滞在したのだが、その仕事も実は、一年半ほど前に香港で仕事をした際に僕を気に入ってくださった方からの依頼だった。香港の合唱団が日本の国際合唱コンクールに参加するにあたり、是非日本で僕の指導を受けたい、というのである。こうしてひとつの仕事が評価されてまた別の仕事につながる、というのは本当に嬉しいものだ。

今回の広州滞在は、本当にハードな滞在だった。毎日6時間みっちりと講義で、日によってはリハーサルもあり、またコンサートに向けて練習もしなくてはならなかったため、毎日仕事が終わってご飯を食べたら「バタンキュー」状態。講義内容も、スキャットからグルーヴ講座、作曲、編曲、ジャズ理論、音楽テクノロジーと、まさに「なんでも来い」の内容で、参加者からしたら贅沢な内容だが、講義する側としては、毎日の準備が相当大変だった。ホテルに帰ってから翌日の授業の資料を作成していたら、疲れすぎてベッドの上でラップトップを開いたまま寝てしまったこともあったっけ。

そんなハードな日々ではあったが、参加者の熱気や、遠い異国からわざわざ呼んでくださった方々の心から喜ぶ姿に背中を押され、毎日ヘトヘトになりながらも充実した1週間だった。そして最終日に、最後の講義で使った最後のプレゼンのページがスクリーンに映し出された瞬間、全員が立ち上がってしばらく鳴り止まないスタンディングオベーションが起こるなど、心が震える瞬間もたくさんあった。

僕の経歴を知っている方は既にご存知かと思うが、僕はその昔、外交官や国際ジャーナリストを目指し、はじめに卒業した大学では国際関係学を専攻していた。大学受験をするにあたっては、「国際理解に貢献したい」という一途な思いを抱き、それを実現するための職業につながる専攻、ということで大学や専攻を選んだのである。

「それなのになぜ音楽?」と、卒業後ミュージシャンの道に足を踏み入れてからは、たくさんの人たちに聞かれた。中にはとても残念がっていた人たちもいたっけ。無理もない。その分野では当時全国でもトップ校のひとつだった大学を経て、「アイドルグループ」と呼んでも差し支えない、白いスーツに身を包んで踊りながら歌うようなグループで仕事をはじめ、アメリカに渡ったあとも、ときおり一時帰国時に弾き語りライブでラブソングを歌ったりしていたわけだから、「あれれ、こいつどうしちゃったの!?」と思われても無理はないのだ。

ただ、自分の中では、高校時代に抱いた「国際理解に貢献したい」という思いは、ずっと一貫してキャリアの中で変わっていないし、白いスーツで歌って踊ることがどこまで国際理解に貢献できるのか、ということはさておき、外交官や国際ジャーナリストを目指した当時の自分と、ミュージシャンになった自分というのは、基本的に何も変わっていないと思っている。

変わったことがあるとすると、表現方法なのだろう。それを説明するには、アメリカで起こった「9月11日」のテロまで遡らなくてはなるまい。

あの日僕は、姉からのけたたましい国際電話で目が覚めた。家にはテレビがなく、スマホでニュースをまめにチェック、などという時代でもなかったので、夜のテレビが特番に切り替わってガンガン報道されていた日本在住の姉が、朝まだ眠っていた僕よりも早く事件に気づいて連絡をくれたのだった。

振り返ると、あの事件は(きっと多くの人にとってそうだったように)僕の人生を変えた。そう、大きく変えたのだ。それまでの僕は、「ラブアンドピース」を歌ったジョンレノンに憧れ、平和について歌ったりしながら、世界平和に貢献したい、という思いを強く抱いていた。でも、9月11日に起こったあの事件は、この「世界平和」というあいまいなものに対して抱く僕の思いを、根本からひっくり返してしまったのである。

「平和ってなんだろう。」40歳を過ぎた今だからこそよくわかるが、こんなことを考えながら日々過ごしている大人は、世の中にはほとんどいない。でも、信じられないかもしれないが、20代半ばぐらいまでの僕は、真剣にそういうことを日常的に考えながら生きていたのだ。なにしろ、高校の卒業アルバムに半ば強制的に書かされた「将来の自分」に、「どこかの国で演説している最中に暗殺されて死ぬ」というようなことを本気で書いていたようなティーネイジャーだったのである。(いま考えると、なかなか暑苦しくてイタイ少年ですね。)

そんな淡い「世界平和」という概念も、自分の住む街から飛び立った飛行機が、自分が何度も行ったことのある街のビルに次々と突っ込み、次は自分の住むアパートのすぐ近くの高いビルディングが標的になるのではないか、と毎日震えながら過ごしているうちに、あのツインタワーが跡形もなく崩れ去ったように、自分の中で音を立てて崩れていったのである。それは紛れもなく、自分が初めて「現地で」経験した「戦争」だったのだ。戦争を前にして、音楽はまったくもって無力だったのである。

だが僕は、あのとき何かの記事で読んだ(ニューヨーク在住ミュージシャンの)矢野顕子さんの言葉をいまでもよく覚えている。実際の口調は忘れてしまったが、「これからは世界平和、ということを声高に叫ぶのではなく、愛や、大切な人を思う気持ちをしっかりと歌い続け、すぐ近くの人たちに届けていくことによって、聴いてくれた人たちが、(二度とこんな事件を起こさないような)優しい気持ちになってくれたらいいな、と思う」というような趣旨の言葉だった。

いま振り返ると、この、どこに掲載されていたかも忘れてしまった矢野さんの言葉が、それからの自分のミュージシャンとしての歩む道を決定づけたように思う。当時の僕は、崩れ去った理想の中でもがき続け、これからどんなふうに音楽を奏でていくべきか、どんなふうに生きていくべきか、必死で答えを探していた。そんな中、決定的なヒントを与えてくれたのが、この言葉だったのだ。

人間、そんなにすぐに変わるものではないから、それからもしばらくは具体的な発言や活動を通して、国際問題に踏み込んでいたりもした。でもそれと同時に僕は、少しずつ、また少しずつ、生き方そのものやミュージシャンとしての方向性を、ゆるやかに(いま歩んでいる方向に)シフトしつつあったのだ。そして、少なくとも自分の中では、このシフトは望ましいシフトだったと思っている。

なぜこんなことを綴っているか、というと、今回の中国での仕事をしながら、日本と中国のわりと複雑な関係について、いろいろと考えさせられたからである。

日本に住んでいる方ならご存知かと思うが、結構多くの日本人、特に高齢層は、中国や韓国に対してネガティブなイメージを持っているようだ。最近はSNSが発達していることもあり、インターネットで見るニュースに様々な人たちがコメントしている。なるべく読むのを避けるようにしていても、中国や韓国の記事になると結構な数のネガティブなコメントがあちこちに書き込まれているのが目に飛び込んできたりすると、いつも暗い気持ちになる。

そして、一部のメディアは、中国や韓国で反日デモがあったり日本に対してネガティブな発言をした政治家がいたりした際、必要以上に誇張して書き立て、「中国人や韓国人は日本人のことが嫌いだ」という印象を煽っているように思えてならない。(実際には、中国や韓国の若者たちは日本や日本の文化が大好きな人たちがたくさんいるというのに。)そして、そういった記事を見て「でもこっちだっておまえらなんか嫌いだもんね」という子供の喧嘩のような反応をしている人たちが、残念ながらかなり存在しているのである。

そんな状況だから、僕は中国で仕事をしたり、中国や韓国から来た留学生たちを教えたりしていると、「本当のところ彼らはどう思っているんだろう」と考えることがよくあった。今回も、「ひとりの日本人がたくさんの中国人に音楽を教えに行く」という状況だったこともあり、はじめの講義をするまでは「こいつなんぼのもんじゃい」と思われてはいないだろうかと、不安な気持ちもあった。(まあ、それはどこの国にいってもある程度同じことが言えるんだけど。)

そんな不安な気持ちに立ち向かう方法は、いつもひとつしかない。徹底的に準備をすることだ。相手を圧倒するぐらいの内容を、真摯な態度で、ときにユーモアを交えながら伝えれば、たいていのことはうまくいくのだ。そして実際、これまでもそんなふうにうまくやってきた。

今回の広州滞在中、香港に住む旧友の韓国人がわざわざ会いに来てくれたのだが、広州に住む彼の(やはり韓国人の)いとこに、「中国と日本の複雑な関係もあって、はじめは不安もあったけど、参加者達がすごく僕のことを気に入って毎日楽しんでくれてるみたいでほっとしたんです」と話をしたら、こんな答えが返ってきた。

「それはね、あなたがいい仕事をしているからですよ。中国人はね、人をよく見ているんです。結局のところ、どこの国の人であろうと、いい仕事をしている人は受け入れるし、そうでない人は受け入れない。そういう人たちなんです。だから、あなたが愛されている、というのは、あなたの仕事や人間としての姿を本当に評価してくれているからなんですよ。」

なるほど、と思ったのだが、夏期講習最終日だった翌日に主催者と話していたら、こんなことばをいただいた。

「I really enjoyed your classes. You are a good man. Very good man.(あなたの講義、とっても楽しかったです。あなたはいい人です。本当にいい人です。)」

日本語にしてしまうと、しかも字面にしてしまうとなかなか伝わりにくいのだが、この言葉は、がっしりと手を握られながら、目をストレートに見つめて何度も繰り返し言われ、とても心に響いた。

そして思った。若かりし頃、「国際貢献」や「世界平和」を声高に叫んでいた自分は、実際のところ本当に貢献できていたのだろうか、と。

いまの自分は、「国際貢献」や「世界平和」という言葉を使うことなど滅多にない。そういった理想をあきらめたからではない。実体のない言葉たちを強く投げかけるよりも、アメリカという「異国」に住み、様々な国からやってくるミュージシャンやミュージシャンの卵達と日常的に接している「外国人」である日本人として、「Good man」でありつづけることが、まわりまわって「国際貢献」や「世界平和」、「国際理解」といったことに寄与しているのではないか。そう思っているからこそ、わざわざ声を大にして「国際貢献」や「世界平和」と行った言葉たちを叫ぶ必要がないのだ。

誤解を恐れずにいえば、僕は国際理解や世界平和促進のために生きているわけでも、活動しているわけでもない。あくまで、音楽が好きで、人が好きで、いろいろな文化が好きで、そんな「好き」なものたちを通して仕事させていただきながら、毎日を面白おかしく過ごしているだけだ。ただ、そういった生き方や、仕事の仕方を通して、少しでもたくさんの人が優しい気持ちになってくれたり、日本人に対していい印象を持ってくれたり、いろんな国や文化の人たちをつなげていけたらいいな、と思うのである。

そんな僕にとって、今回の中国は、とても印象に残る滞在だった。あまりに忙しすぎて観光らしきものはなにひとつできなかったけれど、音楽的にも人間的にも、大きな財産を得ることができた。主催者の方も、たくさんの受講者の方々も、「たくさんのことを教えてもらいました」といってくださったけれど、たくさんのことを学ばせてもらったのは僕のほうでした。みんな、本当にありがとう。

僕はこれまでの人生において、(きっと誰もがある程度そうして生きているように)たくさんの人たちを傷つけ、たくさんの迷惑をかけてきた。そんな自分自身が「Good man」だなんて微塵も思っちゃいないけれど、周りの人に対してなるべく真摯に、(言葉にするのも恥ずかしいけれど)愛を持って接することは、自分が生きて行くうえで、そして仕事をする上で一番大切なことだと思っている。それはいつだって「Work in progress」(まだまだ改良過程、といったニュアンスの英語)だけれど、これからもそんな姿勢を忘れずに仕事をしていければ、と思っている。

 

「じわっ」の理由と「必死さ」の変容

「じわっ」の理由と「必死さ」の変容 (5/11/2017)

期末試験の週間は、いつも「じわっ」とくる。もうバークリーで教え始めて7年が過ぎたというのに、未だに、である。

7年目最後の授業は、つい10分ほど前に終わった。まだ温もりのある静かな興奮冷めやらぬ瞬間を、きちんと記録しておこう。そう思って筆を(正確にはキーボード、なのだが)とることにした。

思えば、2001年に学生として渡米して以来、2013年まで自身の公式ウェブサイトにコラムを書き続けてきた。始めの7、8年ぐらいは割とマメに更新していて、実はページビューの数も相当高かったのだが、ここ数年はまったく筆をとってこなかった。そこには様々な理由があったのだが、月並みに理由を述べてしまえば、「忙しかった」ことにかまけていたし、挑戦者だった20代から、挑戦を受けて立つ30代後半になって、「迂闊なことは書けないな」という気恥ずかしさもあった。

いずれにしても、「頑張ってるつねくん(旧芸名、かつ本名)を応援したい」という声にそれなりに応えていたであろう「頑張ってるつねくん」丸出しのコラムの持つ意味が、年齢や立場の変化を経て本質的に変化してしまったことは事実である。20代の頃はそれこそ「しゃかりきになって」頑張っていたし、30代前半もそうだった。でも、40代に突入した今は、良かれ悪しかれ必死になるようなことはなくなったのだ。必死になることが気恥ずかしくなったのかもしれないし、必死になるだけの体力がなくなったのかもしれない。そして、認めてしまうと悔しい気もするが、実際のところ、その両方ともが大きな理由なのだろう。

必死になることは、いいことだ。人生のある一定の時期においては。ただ、いろんな生き方があるとは思うが、人は大抵ある一定の時期に差し掛かると、若い頃ほどには必死でなくなる。「いい歳して必死こいちゃって」という周りの冷めた目があるからかもしれないし、上に述べた僕の場合のような理由かもしれないが、多くの場合は「あまり必死にならなくても生きていけるから」というのが妥当な答えだと思う。

僕も、必死だったのは、「ミュージシャンとして生きていけるか否か」というステージにおいてが最も顕著で、次に「ミュージシャンとして第一線で戦っていけるか」というステージにおいても結構顕著だったと思う。その時代に必死にならずして、いまの自分はなかったし、21歳になってやっと「ミュージシャンになろう」と思った「音楽修行時代後発隊」の自分は、いま振り返れば「髪の毛振り乱して」といった表現がぴったりなぐらい、必死に頑張っていたと思う。

では、必死になっていないいまの自分は、「イケていない」のだろうか。

おそらく、僕は善くも悪くも図々しくなってしまったのだと思う。きっと昔は、自分が「イケているかイケていないか」ということがとても重要だったのだ。でもいまは、他人から見て「イケて」いようが「イケて」いなかろうが、「どっちでもええやん」と思うようになった。むむむ。「不惑」とはまさによく言ったものであるし、あるいは「おっちゃん」「おばちゃん」が齢とともに図々しくなる構図に、自分もぴったりハマっているだけなのかもしれない。

別に「昨日まで必死だったけど、今日からは必死ではありません。バイバイ、必死さん!」という境界線があったわけではなく、「必死度」は年々緩やかな下降線をたどってきたのだろう。ただ、図々しくなってしまったことを前提に書かせてもらえるならば、他人がどう思おうが、「必死に」なっていないいまの自分は、別に嫌いではない。 なぜなら、「必死に」なったからといって結果が伴うわけではなく、むしろ40代を迎え、「必死」ではなく、肩の力を抜いてコツコツやることを覚えてからのほうがいい結果を生み出していることもたくさんあるからだ。

ただし、である。ここ数年の僕は、音楽のキャリアに対してちょっと手を抜いてやしないだろうか。

素直に認めます。答えは「イエス」である。はい、手を抜いていました。

でも、そこに大きな理由があり、「手を抜いて」きたことに後悔は全くない。もちろん、「手を抜いてきた」といっても、最低限のことはしっかりしてきたし、おそらく僕の「手を抜く」の基準は比較的高いところにあるので、緩やかながらもきちんと成長はしてきたという自負はある。でもここ数年は、音楽よりも優先したいことがあったし、それは僕の人生にとり、とてつもなく大切なことだったのだ。

2012年に長女、2014年に次女が産まれ、僕は子育てに向き合ってきた。そして、恥を恐れずにいえば、僕はそれこそ「必死に」子育てをしてきたと思う。日本では「イクメン」だのなんだのと騒がれているが、正直なところ僕はそんな風潮を冷ややかな目で見ていた。なぜなら、「母親並み」、そして妻がフルタイムで働いていた時期はそれ以上に子育てをしてきた僕にとって、「イクメン」と持ち上げられている人たちに関する記事は、「所詮そんな程度か」というものが大半だったからだ。

だってそうじゃないですか、世の中のお母さん方!子育てって、命がけですよね?何をしても泣き止まない娘たちにイライラしたり、明日ライブがあるのになんでこんな時間にオムツ替えなあかんねん、と愚痴りたくなったり、やっと用意が出来て出かける間際に、綺麗なお洋服にジュースをこぼして「着替えるー」と泣かれてみたり。ひとりで小さなふたりの娘を海や行楽地に連れていって、現地でママ友と合流するまでの時間、「ああ、お願いだからいまう○こしないでくれよ」と祈ったり。

そう、僕は必死でした。そして、子育てに必死な僕は、音楽はそれなりに手抜きして、以前にも増して「コツコツ型」、「出来るときになるべく要領よくやる型」に切り替えざるを得なかったのである。

さて、一見話が相当それてしまったようだが、今日の授業の話に戻ろう。なぜ学期末がいつも「じわっ」とくるのか。それは、僕が受け持つほとんどの授業で、(最後の授業が試験の場合を除いて)最後の授業が終わると学生たちから拍手が起こり、握手を求める行列が起こり、なかにはハグまで求めてくる学生もいたりするからだ。

僕の授業は、バークリーの中でもとても厳しいことで知られている(らしい)。なぜ厳しいか、というと、ミュージシャンとして(それも異国の地で)ご飯を食べていくことの厳しさを、身にしみて実感しているからである。この分野では世界最高峰の大学のひとつであるバークリーで取得する、実践的な作編曲、プロデュースの授業で提出される課題が、「ヘナチョコ」なものであっていいワケがない。現実社会で「午後4時からレコーディング開始」となったらそれまでにすべてが準備されていないと仕事になり得ないように、どんなに優れた課題であっても、1分1秒たりとも遅れて提出されていいワケがない。

だから、どんなにいい性格であろうと、奨学金をたくさん貰っていようと、クオリティの低いものは平気で「F(Fail)」を与えるし、どんなにいい作品であろうと、提出が1分でも遅れたら受け取らない、というポリシーを貫いているのだ。提出されたものは、「これでもか」というぐらい重箱の隅をつついてスコアもレコーディングもチェックして「赤」を入れる。なぜなら、実際に世の中に送り出される作品も、プロであるならば皆そうやって重箱の隅をつつきまくって細部を詰めているからである。

僕は、教壇に立ち始めてから7年の間、自分が「教える側」だと思ったことはほとんどない。むしろ、同業者として「プロはこうあるべき」という姿勢や技術を、学生たちと共有する作業だ、と思って向き合ってきた。だから、学生たちに「リーの音楽はイケてる」と思ってもらえなければ負けだと思って戦ってきたし、学生たちに「あれ、リー先生、ほんと分かってるのかいな?」と思われるようなことがあってはいけない。だから、学生たちの何倍も努力してきたし、「手を抜いた」と自覚していた時代でも、おそらく学生たちの何倍も勉強していたと思う。

そんな厳しい僕とは、もちろん全ての学生が合うわけではないだろう。ただ、幸いなことに、教え始めて数年ぐらいしてから「どうやらあいつは厳しいらしい」という噂が広まり、それを分かった上で敢えて挑んでくるような学生しか僕の授業は受講しなくなってきたため、多くの学生は僕の授業に登録した時点で、それなりの免疫があるようなのだ。

しかし、それを前提にした上でも、おそらく僕は相当厳しいのである。書くスペースが足りないので詳細は省くが、おそらく学期中、僕に対して「チキショー、この野郎」と思ったことのある学生は、ひとりやふたりではないはずである。そして、長年教えていると、言葉には出さなくても誰が「チキショー、この野郎」を秘めているかは、こちらには丸見えなのだ。

にもかかわらず、である。その「チキショー、この野郎」を秘めている学生も含めて、学期末の最後の授業の後には、多くの学生が列をなして握手を求めてくるのだ。そして、「チキショー、この野郎」の学生たちが「僕の成績は必ずしもよくなかったかもしれません。でも本当に勉強になりました。ありがとうございます。」「厳しいこと言ってもらえたおかげで、成長できました。」とわざわざ言いに来てくれ、笑顔で去っていくのである。学期のはじめは僕のことを品定めするようにふんぞり返って座っていた学生が、最後は熱烈なハグまでして帰っていくのである。これに「じわっ」と来ないわけがない。

思えば、僕がここ数年子育てに没頭してきたことは、意外にもいい意味で授業にも反映されてきたのかもしれない。厳しいだけでは子供も学生もついてこない、というのは共通する事実だ。そして、これが重要なのだが、優しいだけでも彼らはついてこないのだ。僕は、いわゆるモンスターペアレンツではないし、頼まれてもそんなふうにはなれない。ただ、自分の子供たちのことは心から愛している。愛しているからこそ、安全に関わるようなこと、社会に出て行く上で礼を欠くようなことをしたときの親としての反応は、わりと厳しく言うほうだと思う。そしてその姿勢は、実は授業においても、まったく共通しているのだ。

僕は、バークリーにくる学生たちが好きだ。かつて自分もそうであったように、遠い国や地域から、世界に通用するミュージシャンになることを夢見て、様々な障害を乗り越えて意気揚々とやってくる。そのエネルギーと好奇心たるや、まるで2歳児のそれに匹敵する、といっても過言ではない。だからこそ、僕は彼らに厳しい。なぜなら、僕は彼らに成功してほしいからだ。音楽で食べていけるということは、こんなに素晴らしいことなんだよ、そのためには、人の何倍も努力しなくちゃいけないんだよ、としっかり伝えたいからだ。

そんな思いを持って届けた授業を通して、学期初めとは比べものにならない出来の作品をみんなで聴いたあと、「See you around!(またどこかで会いましょう)」と言って別れたとき、そして列をなす学生たちの握手やハグを受け止めたとき、僕はつい「じわっ」としてしまうのである。そう、バークリーで初めて教鞭をとってから、7年が経ったいまでも。