にせものじゃない感動のために (07.11.2001)
June, 2001
Photo taken by Tomomi ITO
心の底から感動で揺さぶられることが、人生のうちどれぐらいあるのだろうか。
立ちすくむほどに感動するなんて、全ての人が経験できることじゃないのかもしれない。そういう意味では、僕はラッキーなのだろう。確かに、思い返してみると僕は、子どものときからちょっと変わった子だったように思う。僕にしてみたら、母や姉のほうがおかしいんちゃうか、とひそかに思っていたが、僕はよく部屋の明かりを消して真っ暗やみの中で詩を書いたり音楽を聴いたり、ピアノを弾いたりして、部屋の前を横切る母や姉をぎょっとさせた。そのたびに、「邪魔しないでよ」と心の中で思いつつ、ふたりともなんで不思議に思うのかがよく理解できなかった。
僕は昔から明かりが苦手だ。明かりが少ないほうが、心が澄んで、感覚が鋭敏になるのだ。
だから、いまでも僕は、何かを創るときやピアノをインプロしてただただ弾いたりするときは、たいてい明かりを最小限にしている。
そして、そういう中で、時間を忘れるぐらい何かに感動したり、わけもなく涙が出て来たりする。
そういう瞬間が、なにかを産み出す原動力になる。
今日、バークリーでの師のひとり、Paul Stillerが2年近く前にやったコンサートのCDを聴いた。
感動して動けなくなった。素晴らしさに圧倒されて、ほんま音楽やめたろか、と思うくらい、打ちひしがれたけど、それ以上に感動に包まれて、心地よい空気の中にいた。
ふだんは一緒にタイ料理を食べたりしながら、けらけら笑ってるのに、創り出す、そして奏でる音楽の力には、僕とはまったく別の次元をいってる。彼に何度か「こいつはいいぜ!」って、僕の書いた作品を誉められているが、彼のCDを聴くと、誉めてもらえたこと自体、ウソみたいな気がしてくる。
この世の中に、本当に心の底から感動できる音楽のために動いている人間が、いったいどれくらいいるのだろうか。日本で、目の前のことばかり考えて音楽をやっている人の多い中、自分を見失わずに音楽をこつこつと創っている人がどれぐらいいるのだろうか。そして、その人たちは、それによってきちんと評価されているだろうか。メシを食っていけているだろうか。「プロ」だなんていばりつつ、くずみたいな音楽をやって「感動ごっこ」を続けているにせ「アーティスト」の、どれだけ多いことか。そして、それに踊らされている聴衆の、いかに多いことか。
PaulのCDに感動した余韻に包まれて、僕は夜1時を過ぎたのアンサンブル・ルームでひとり、明かりを暗くしてずっとピアノをインプロしつつ、曲づくりの基礎を模索した。・・・いい音が出る。ひょっとしたら感動は、感動を呼ぶのかもしれない。Paulの100分の1くらいかもしれないけど、僕にも力がないわけじゃないと、思える瞬間。
誰かの人生を変えちゃうくらいの音楽を創りたいものだ、とつくづく思う。Paulや松岡由美子の創った音楽は、僕の人生をまったく別のものにしてしまった。そして、僕はいまその彼らと毎日のように顔を合わせながら、コバンザメのように曲を持参する。彼らは、一度だって嫌な顔を見せたことはない。本当の感動を知っている人たちは、利害関係などとは無縁の世界で動けるのだ。僕は、彼らから、そして今まで生きてきた中で出会ってきた多くの人たちから、そういう心意気を学んできた。そして、気づいたら僕もそんな動き方をするようになっている。
すべての人が味わえるわけではない幸せを、人生のうち今しかないこの瞬間を、僕はひとつの音にしっかり込めていきたい。そんな思いが、夏のライブで伝わればいいな、と強く思っている。
(敬称略)