僕からの反論:「苦手」に挑み続けた本当の意味 (05.14.2007)


Syncopation, May 2007
photo taken by Miho Taniguchi

 

 それなりに長い間生きていると、人生には風向きというものがあるということに誰しも気づくだろう。まだ30年ちょっとしか生きていない僕だけれど、最近はそれがよく分かる。

 前にも書いたけれど、2005年の後半から2006年いっぱいぐらいまで、僕はかなり「どん詰まり」な状態にあった。これまで多少の浮き沈みはあったものの、基本的には「右肩上がり」の人生だった僕にとって、これは想像以上にこたえた。どんな分野で生きている人でも、20代半ばすぎぐらいまでは勢いさえあればそれなりに突っ走れるものだ。しかし、突っ走れるだけ突っ走ってみて、人間には体力にも気力にも限界というものが存在するということにようやく気づくようになった頃、自分のやっている分野で頂点を極められるのは実はひと握りの人たちしかいないのだ、という当たり前のことに夢追い人たちはやっと気づくのだ。僕みたいな「自由業」的な職業をしている人でなく会社という組織の中で働く人々であっても、同年代だとそろそろ中堅どころに差し掛かり、下からは有望な人材も入ってきたりもして、自分が必ずしも会社の中で重要なポジションに行き着ける訳ではない、ということにも気づき始める頃だろう。

 そんなとき、「自分はこんなものだ」と悟ってしまうのは容易い。でもそう悟った時点で、自分の成長はほぼ止まってしまうものだ。もちろん、それが安定した家庭の幸せ、という形で人生を表現し続けられる人もいるし、ずっと成長を続けていれば必ずしも幸せになれるわけではない。けれど、僕のような職業をしている人間にとって、成長が止まることは死刑宣告を受けるようなもの。でも成長を続けようとするには、気力の面でも経済的な面でも、それをしっかり支えられる自分でなくてはならないし、それは誰しもができる訳ではないだろう。

 僕の場合、「どん詰まり」な期間であっても成長自体は続いていたと思う。けれど、それが自分が求めているレベルで形として結びつくことがなかなかなかったり、経済的にも苦しかったり、またほかにもいろんなことがあったりして、去年はもうアメリカを引き上げようかとも思った、ということは前にも書いた。

 そして、紆余曲折な思考のプロセスを経て最終的にはアメリカに留まる決断をし、Syncopationのメンバー交代を経て、今後への希望を持って動き出したことも書いた。

 

 その決断をして、3ヶ月が経った。いま、僕の人生の風向きは確実に変わりつつある。折り畳んでいた帆をもう一度かかげ、勢い良く海原に飛び出す状態に、ようやく辿り着いたと思っている。

 

 そのことについて話を進めるにあたって、「苦手」ということについて書きたい。

 

 あれは、2005年の夏ごろだったと思う。Syncopationの来日公演を終えてほっとしていた頃、これまでの僕を良く知る友人のひとりに感想を求めたら「Syncopationをより良くするためには、Lee さんの代わりに誰か他の人を入れて、Lee さんはプロデューサーとして後ろから支える役割に徹したほうがいいんじゃないの?」と言われた。

 まだある。やはりこれまでの僕を良く知る別の友人に、「つねくんはどうして弾き語りをしてるの?正直いうと、つねくんの歌唱力は、アーティストとしては月並みで、ずば抜けたものがあるわけじゃないし、声を出した瞬間に心を魅きつけられるようなものを持つ歌手たちにはかなわないんじゃない?」と言われた。

 まだまだある。去年の終わり頃、久々にピアノから離れて歌に集中し、ピアノとデュオでジャズボーカルに専念して大盛況だったことを、ある音楽家に話したときのことだ。「これまではあえて苦手なことにもチャレンジしてたんだけど、これからは自分が強いと思うものにそれなりに特化していこうかな、と思ってるんです。」という僕に、その人は「それがいいと思う。苦手なことを人前でやるなんて、プロじゃないよね。」と、これまでの日々をバッサリと切り捨てられるようなことを、さらっと言われた。

 

 僕は、幸か不幸か、人に意見を求める人だ。いろんな人から本音のフィードバックをもらって、いいことでも悪いことでも正面から受け止めてしまう。そして悪いことであれば当然、人並みには落ち込んだ。自分の弱いところを突かれるのは誰しも嬉しいことではない。それを避けながら生きることも、できない訳ではないだろう。でも、僕は性格上、どうしてもいろいろな人にフィードバックを求めて、いいことでも悪いことでも耳に入れてしまうのである。上に書いた3つのことは、いまでもはっきり覚えているぐらいだから相当強く「くそおおおおおおおお!」と思ったのだろう。はっきり言ってそんなことを言われることは相当悔しかった。でも、いまだから言えるけれど、僕にはきちんと反論できる材料があったのだ。

 それを、ここに書こうと思う。

 

 僕は、音楽を本格的に始めた時期がかなり遅い。それ故に、普通なら「発表会」的なものを通して未完成なものをどんどん発散出来るような機会をあまり通らず、いきなりプロフェッショナルな場で出していかなくてはならなくなった。だから、プロとして活動しはじめてからも、これまで出来なかったことや苦手意識を持っていたものを、「仕事の場」で出さざるを得なかったのだ。もちろん、プロとして最低限必要なレベルになるまでは出していないが、だとしても出しはじめのころは圧倒的なパワーを持って出せていたわけではないし、いまでもそんなパワーを出せてないものだってたくさんある。

 でも、そんなふうに「苦手」なことに敢えてトライし続けてきたことには、きちんとワケがある。

 「音楽」といっても様々な仕事がある中、僕が一番好きで、かつ得意なものは「曲を書くこと」と「プロデュースすること」である。「苦手なことをするのはプロじゃない」という上記の音楽家の意見に沿うならば、僕は曲書きとプロデュースだけやっていればいい、ということになる。でも、残念ながらそういうワケにはいかない。なぜなら、ひとつには上記のように、僕が音楽をはじめた時期が遅く、曲を書くことやプロデュースする際に必要になってくるような「演奏家として最低限必要な力」がまだまだ足りなかったからであり、もうひとつには「音楽は生き物」だからである。作曲家にもプロデューサーにもいろんな人たちがいるけれど、僕の目指すところの作曲家やプロデューサーというのは、「生きている音」を感じられる人材なのだ。生きている音を扱い、何がかっこ良くて何がかっこ悪いのか、体験としてリアルタイムで関わっている人間の作る音と、あくまで曲を書くだけだったりプロデュースするだけだったり、という人間の作る音には確実に違いがある。僕は常に前者でいたいと思うから、自分の「楽曲制作能力」や「プロデュース力」のレベルにはだいぶ及ばない「演奏家としての能力」も、常に鍛えていないといけないのである。(前者の最たる例が、坂本龍一氏であり、David Foster氏である、といったらより分かっていただけるかもしれない。)

 僕がSyncopationを、プロデューサーとしてだけでなくメンバーのひとりとして続けている理由のひとつはそこにある。はっきりいって、前のメンバーにしてもいまのメンバーにしても、ほかの3人のメンバーは恐ろしく歌唱力があり、僕みたいな平凡なシンガーには逆立ちしたってかなわないものがあると思う。ただ、彼らを尊敬し一目置きつつも、「なにくそっ。オレだって負けてられんわい。」と思い、彼らのスタンダードに追いつこうとすることによって、自分のレベルも確実に上がってきたのも事実だ。また当然ながら、メンバーのひとりとして関わり続けることによって、メンバーだけでなくバックの一流ミュージシャンたちと共にサウンドを作りあげ、その演奏レベルに自分のレベルも合わせていかなくてはならない。おのずと、それができるようになる。それができるのとできないのでは、曲を書くうえでもプロデュースをする上でも、幅の広さがまったく異なってくる、というのはいうまでもない。

 Syncopation の日本メジャーデビューアルバムをプロデュースしてくれたカルロス菅野さんは、前にSyncopationを辞めて日本に帰ろうかと思っていろいろ相談したときに「 アベくんは、どこでどう活動していくにしても、自分の作る曲を形にできる、考えうる限りで最高の実力を持つバンドを持ち続けていたほうがいいよ。」ということを言ってくださった。そのときは、日本に引き上げて新しく何かを作ろうか、と思ったりもしていたのだが、コーラスアレンジとジャズの作曲を得意分野とする僕にとって、いま考えられる中でお客さんを「すげえ!」と圧倒出来る実績とポテンシャルを持つのは、やはりどう考えてもSyncopationを置いてほかにないのだ。それと同じ内容、同じレベルでお客さんを圧倒させるものを日本で作り上げることは、ジャンルがジャンルなだけにほぼ不可能だろう。それが分かっているからこそ、これまでずっとアメリカに留まってきたわけだし、それを一度はあきらめかけたものの最終的に残る決断をした最大の理由も、やはりそこにあった。

 蛇足になるが、ジェレミー がSyncopation を辞めることになったとき、今後グループを存続させるべきかどうか、存続させるとすればどのような形でするべきか、という話を、残された3人で真剣に話し合う機会があった。その際、僕は「いくつか考えられるオプションとして、僕はメンバーとしてはグループを離れて、もっと歌える人を入れるという手もある。それによってSyncopationがより良くなるのであれば、僕はそれでもかまわない」と言ったのだが、いまでもメンバーとして活躍してくれているクリスティーンはそのとき、「あんたほどピュアな気持ちで私利私欲なくグループ全体のことを考えられる人はいない。あんたがいないグループだったら、私はやらない。」と言ってくれたっけ。歌の圧倒的にうまい人を4人集めたらベストなグループが出来るとは限らない。グループをやっていく上ではいろんな役割があって、それぞれの持ち味がベストな形で生きるケミストリーは、いろんなファクターによって作り上げられるものなのだ。

 ちなみに、自分の名誉のために付け加えておくと、(特に)アメリカでは歌唱力のある人なんて吐いて捨てるほどいるが、僕がいま歌っているパートを歌うのは実は相当難しい技術が必要で、声域的にもベースパートは人材難であり、アメリカといえど、同じレベルの人材を捜すのはかなり至難の業なんでございます。付け加えていうと、先日のライブでそれぞれがソロ曲を1曲ずつやったけれど、今回に関していえば僕の演奏のときが一番お客さんの拍手が大きかったっけ。単純な意味での「歌唱力」においては他の3人にはかなわないけれど、「お客さんを楽しませること」が、僕は得意なんだと思う。そして、それは誰もがもっている才能ではないのである。ま、でも他の3人の演奏もほんとよかったなあ。みんな歌に「心」があって、一観客として純粋に聞き惚れちゃったなあ。

 

 さてさて、次にピアノ弾き語りについての「反論」を書こう。

 15歳のころに独学でピアノをなんとなく弾き始めた僕は、以後、現在に至るまで、ピアノのレッスンというものを受けたことがない。そんな僕に、バイオリン奏者でもありたまにピアノを教えたりもしている姉はかつて、「曲のアイディアとか書ける曲の幅を広げるためには、もっとピアノが弾けるようになると便利だよ。」と言った。僕は「なるほど、そんな考え方があったか」と思ったものだ。実際、練習すればするほど、いろんなスタイルのものにチャレンジしてモノにしていけばいくほど、なるほど作曲の幅は広がっていったのだった。

 僕が弾き語りライブを続けていたのは、もちろん演奏することが楽しいから、という理由は大前提としてあった。でもそれと同時に、弾き語りライブを自分に「課する」ことによって、否が応でも曲を書かなくてはいけない状況を作ることは、とても大事なことだった。それから、人前でピアノを演奏するわけだし、さらにはピアノを弾きながら歌うという、ピアノを弾くだけよりは格段に難しい作業を自分に課するわけだから、当然ながら相当な練習量が求められ、結果として当然ピアノもそれなりに弾けるようにもなった。尊敬する小曽根さんや(上原)ひろみちゃんのようにピアノを専門にやっている人のように弾けるようになろうとは夢にも思っていないが、いまではピアノを弾くことがちゃんと仕事になっているし、ピアノがそういったレベルで弾けることによって、書ける曲の幅も格段に広がった。また、コラボレーションの幅も広がり、プロデュース業に結びつくきっかけも格段に増えた。そこに、僕が弾き語りライブを続けてきた一番大きな意味が込められていたのだ。ちなみに上記の友人には、この理由を述べたら「そういうことだったのか。それならすべてが納得いくよ。」と言っていたっけ。

 

 こんなふうに、一見「苦手」なことをやってきて、結果として「あんな程度のものだったらもう聴きに行かなくてもいいや」と思ってライブに来なくなったお客さんだっているだろう。でも新たに来てくれるようになるお客さんだっている。ミュージシャンでいることは、日々闘いの場にさらされているようなものだ。成長しようとすることをやめて現状に留まろうとすることによって、守れるものもあるだろう。でも僕はそこで守りきることより、もちろんあわよくば守りつつ攻められれば一番いいのだが、ときには守るための鎧を脱いででも攻める道を選んで来たし、それは間違った選択ではなかったと、いまならば声を大にして言える。

 おかげさまで、かつて「苦手」だったものの多くは「苦手」ではなくなり、自分のツールとして少しずつ強いものになってきている。最近風向きが変わって来たのは、そういった「苦手」なことを、逃げずに向き合ってきたことに拠る部分が大きい。Syncopationの状況がよくなってきたこともしかり、プロデュースワークや楽曲提供の依頼が増えてきたこともしかり、なぜか黒人教会でゴスペルクワイアを指導しつつピアノを弾く、なんて仕事を毎週依頼されるようになったのもしかり、である。(東洋人の僕が黒人にゴスペルのコーラスを毎週教えて感謝されるなんて、どうも考えても笑い話だけど。あはは。)

 去年ぐらいまでは、あまり目に見える結果が出ていなかったから、こんな反論もできなかった。「口だけの人」なんてイヤだからである。今年からは、いろんなことをようやく、目に見える形で結果を残していけそうだ。

 Syncopation はメンバーひとりひとりがこれまでになくやる気がみなぎっていて、ライブやレコーディングの予定もどんどん入って来ている。新しいアレンジもどんどん書いていて、その一部は既にライブでも演奏しはじめている。この夏以降のSyncopationは、いろいろと面白い展開がありそうなので期待していてほしい。プロデュース業においても、自分の持ち味をさらに活かせそうなプロジェクトがいくつか進行していて、ワクワクする日々が続いている。ゴスペルコーラスの指導も、将来的に日本でのコーラス指導においておおいに役に立ちそうだし、それに向けて毎週演奏しているたくさんの曲をデータベース化することにしている。来年7月には、9年前に亡くなった大学の先生の、オーケストラによる追悼コンサートが決定していて、今月からはいよいよそのスコアを書き出す予定で、その壮大なチャレンジに武者震いをしている。

 ちなみにゴスペルもオーケストラも、いままでの僕にはほとんどなかったボキャブラリーだ。そういう意味では、新たな「苦手分野への取り組み」ともいえるかもしれない。ミュージシャンとして、人間として、尽きない好奇心と探究心を、まずは行動してみてそれをどうやってさらに大きな仕事につなげるかを考えていく。ふりかえると僕は、いつでもそんなふうに生きてきたし、これからもそうやって生きていくのだろう。

 これから先一年間ぐらいの間に、Syncopationのアルバムも含めるといま分かっているだけでも3、4枚のCDをプロデュースすることになりそうだ。いろんなタイプのプロデューサーがいるけれど、僕はDavid Foster氏やQuincy Jones氏のように「生の楽器をしっかり扱える」プロデューサーを極めたいと思っている。そのためにはオケもビッグバンドもしっかり書けなきゃいけないし、アーティストから信頼されて、リラックスして音作りをしてもらうためにも、人間的にもっともっとゆとりある、幅のある人になりたいと思っている。

 そしてもうひとつ、長い目で見たライフゴールとして、日本の中学高校の音楽教育の中にジャズコーラスを取り入れていく、というような動きを起こしていきたいとずっと思ってきたんだけれど、そんな動きも少しずつはじめていこうかと思っている。僕が初めてジャズを聴いたのは大学に入る直前ぐらいだったし、ジャズの楽しさを教えてくれる人に出会えたのは、20歳を過ぎてからだった。もっと早く出会っていたら僕の音楽人生はだいぶ変わっただろうに、と思うが、いまさら時間は巻き戻せない。音楽そのものは好きなのに学校の音楽の授業はキライ、という子供たちが、音楽にはいろんなものがあるんだ、ということに触れる機会を持てれば、日本の音楽家の底辺は確実に広がるだろうし、それが広がれば全体のレベルも上がるはず。アメリカではたくさんのハイスクールでジャズコーラスが行われ、たくさんのコンクールがあって子供たちが早い時期からジャズに触れている。日本でもビッグバンドが中学高校の部活動として成り立ちつつあるのだから、英語と音楽、両方の勉強にもなるジャズコーラスが根付かない理由はないはずだ。

 こんなふうに、「いま」と「未来」に思いを馳せて、いろんなことを考えながらいろんなことが動き出している。「いま」の立ち位置をしっかり見つめてその足場を固めながら、これまでいろいろな「苦手」を、長いスパンで見るが故にあえて立ち向かって克服してきたように、新しいチャレンジにも怯むことなく立ち向かっていきたい。自分には、それが出来るはずだ。

 

 この数年、「どん詰まり」とはいっても、その間たくさんのいいことだってもちろんあった。でも自分の中にはいつも焦燥感があったと思う。そんな喜怒哀楽激しい日々の中、支えになったのはいろんな人たちの存在だったと思う。いい音、エキサイティングな音、そして心を揺さぶるステージを創っていくことによって、僕はその恩に少しずつ応えて行きたいと思っている。どんな時期でもしっかりと支えて来てくれたファンの方々や家族、バンドのメンバー、友人たち、そして、あなたにはまだまだやり残していることがたくさんあるはずだからアメリカに残ってやれるだけがんばれ、と背中を押してくれた人に、心から感謝したい。

 

 

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