One More Try (01.27.2007)


photo taken by Tsunenori "Lee" Abe

 

 今日のボストンは今年一番の冷え込み。今外はマイナス15度。体感温度はマイナス29度にもなるそうだ。

 そんな日は、よほど外に出なくてはならない用事がない限りは、家にこもって曲を書くに限る。ということで、今日は2日前にピアノを弾いていて浮かんだ曲を書きまとめ、その曲の歌詞をコラボして製作するために必要な音資料のラフレコーディングをしていた。

 「One More Try」とタイトルをつけたこの曲は、久々にSyncopationに書いたオリジナル曲だ。出てきた曲が自分の中で久々にかなり心打つものがあったから、歌詞も自分自身が本当に投影できるようなものでありたい、と強く思い、いま自分が強く感情移入できる言葉から、曲の大事な部分のフレーズに合いそうな言葉をいつも以上にじっくりと探した。そして出てきた言葉が「One More Try」。歌詞は英語なのでこれから英語ネイティブの作詞家とコラボする予定だけれど、強く思い入れのある曲になりそうだ。

 実は去年の秋、僕はSyncopationで追いたかった夢を一度諦めかけた。2004年に日本でメジャーデビューしたまではよかったが、アメリカのレコード業界の壁は厚く、なかなか望むような契約がとれない。そんな中メンバーも少しずつ歳を重ね、生活の中でのプライオリティに変化が生じてきた。なかなかリハーサルを重ねてより良いサウンドを作っていこう、という空気にならず、「現状維持」的な空気がグループを支配してることに耐えられなくなっていたのだろう。もう2年以上も新曲を出しておらず、新しいアレンジを書いて持って行っても、いつも中途半端なまま本番を迎え「まだちゃんと歌えていないから今回はやめよう」ということが続き、結局新曲はいつもお蔵入り。いつの間にか「安全パイ」ないつものレパートリーばかりを演奏する日々が続いた。

 曲を書くことこそが僕の強さであり生き甲斐であり、ミュージシャンとしての生命線だ。そんな僕が、自分が一番自己表現をできるはずのSyncopationで2年以上曲を書ける状態になかったのだ。これは想像以上に大きなストレスだった。ほかのグループや出版社などからはたくさんの依頼が来て書き続けているのに、自分たちのためにはまったく書けない。応援してくれている友人やファンの方々から「新しいアルバムは創らないの?楽しみにしてるからね。」という言葉を聞く度に心が痛んだ。我々のサウンドを心から楽しみにしてくれている人たちが少なからずいる。そして我々がやっているような「vocal jazz」という分野の音楽は、アメリカでも根強いファン層や教育者たちがいて、我々のようにプロとして演奏したりCDを出したりするグループがほとんどない中、「vocal jazz」の歴史をつないでいくためにも我々の役割は大きいはずなのだ。

 にもかかわらず、同じレパートリーばかりを、同じようなステージ構成で、可も無く不可もないようなステージを続けていていいのだろうか?もっといいサウンドを創るためにじっくりリハーサルしたいのに、リハーサルすらろくに出来ない日々。Syncopationでかなえたい夢があるからアメリカに、しかもボストンに残っているのに、リハどころか打ち合わせのためにみんなで会う日程すらうまく合わせられない状態。ならばいったい僕はどうしてアメリカに留まっているのだろう。日本に戻って活動していたほうが、よほど充実した日々が送れるのではないか。

 もちろんこの2年間がずっとそうだったわけではなく、少しずつ、少しずつ、そういう状態になってきて、いつの間にか「重症」になっていたというのが実際のところだと思う。

 かといって4人いれば4人の人生がある。メンバーそれぞれの生き方は尊重したいし、プライオリティが変わって行くのも仕方がないと思う。アーティストとして生きて行くことはとてつもない困難が伴うものだし、安定して飯を食っていく、という観点でみたら決して進むべき道ではないだろう。それを全員に強いることなんて、できるわけがない。

 でもその一方で、これまでいろいろなバンドに携わってきたが、バンド、なかでもコーラスグループというものは、何事にも一番弱いところに全体のレベルが合ってしまうものである。演奏が下手なら、一番下手な人のレベルに。ステージプレゼンスがひどい人がいたら、その人のレベルに、お客さんの目や耳というものは自然と行くものであり、結果としてグループの評価もその一番低い部分に合ってしまう。ひとりがリハに来れなかったりツアーに行けなかったりすると、それが全体の行動の限界、サウンドづくりの限界になってしまうのだ。

 それぞれの人生を尊重することが大切であることにもちろん変わりはないが、趣味ならともかくプロとしてやっている以上、それによっていい音楽が創れず、自分の人生が前に進められないのであれば、「はいそうですか」とおひとよしを続けているわけないもいかない。そこに長い間葛藤があった。その葛藤に耐えられなくなったからこそ、「これがこのバンドの限界なのかもしれない」と思って前に進むことを諦めようとしたのである。日本で同じレベルのメンバーを探そうとしてもほぼ不可能なのは分かっているし、いまの実力でもそこそこのステージはできるのだからこれからは細々と現状維持でやっていけばいいじゃないか。そう何度も自分に言い聞かせようとしたのだ。

 書けること、書けないこと、本当にいろんないろんな理由があったのだが、結果的に僕は、諦めることが出来なかった。そしてこの12月、Syncopation はメンバー変更を実施。短期間のうちにたくさんの応募があり、びっくりするぐらい高いレベルの候補者が集まった。改めてこの国のミュージシャンの層の厚さに驚くとともに、自分が信じて追求してきた音楽がこんなに多くの優れたミュージシャンたちをも惹きつけているという事実に、強く心を打たれた。

 「Lee(僕の英語名)は Lee にしかできないことをやるべきだよ。LeeがいなかったらSyncopationのサウンドは存在しないわけだし、そのサウンドを待っている人たちがいっぱいいるのを忘れないでほしいな。」

 友人が言ってくれた、その言葉のとおりなんだと思う。でもちょっとだけ弱音を言わせてもらうと、「それを続けられるのは、努力だけじゃなくて特別な才能と運が必要なんだ。僕もそろそろその運を待ち続けてるのも限界点に達しそうなんだよ!!」って叫びたくもあったんだよね。

 20代まで追っていた夢を、30代になって諦めて方向転換する人はたくさんいる。僕ももしかしたら、いまその分岐点に立っているのかもしれない。ハーモニーに魅せられて、ジャズに魅せられて、そのふたつが一緒になった「vocal jazz」という形態(簡単にいうと、jazz vocal group で創る音楽のこと)。それを仕事として追求し続け、それなりのステータスまで辿り着いた。それをもっと自分が「こうありたい」と思うところまでの高みを目指すのかどうか。このグループを創ったとき、「グラミー賞をとりたい」と言った思いそのものは変わっていない。それを諦めずにいられるか。奇しくも今年のグラミー賞には、まだ僕がバークリーの学生だった頃 Syncopationがよく一緒に演奏していた同期のトランペット奏者がノミネートされた。彼のノミネートを知ったとき、1年前に一緒になったニューヨークでのジャズの大きなイベントでひとり、自分のCDのチラシ配りをしている彼の姿をすぐに思い出した。弛まぬ努力と、小さな行動の大切さを忘れないこと。そのうえで運を待ち続けられる体力。そして運そのもの。

 僕も、いつまでそれを追求し続けられるかなんて分からない。でも少なくともいまはっきり言えるのは、諦めかけていた事実は過去のものであり、僕はいま体当たりで「One More Try」を試みている、ということ。そうしようと心底思えるようになり、一緒に志を掲げる仲間がいるということ。僕には僕にしかできないことがある。僕にしか創れないサウンドを、そのサウンドを待ってくれている人たちのところへ一日も早く届けるために、やせ我慢と闘いながら、いま僕はあらゆる努力を惜しまずに日々過ごしている。2007年は、そんな年になるだろう。ここ数年蒔き続けた種が今年こそは咲くように、もう一度、アメリカに渡ったころのがむしゃらな気持ちを思い出して走ってみようと思っている。

 

 

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