新しいステージの前に (09.06.2005)


2005年7月・めいほう音楽祭のステージ。サウンドチェック中です。
photo taken by つね

 

5月以来のコラム更新。4ヶ月以上書かなかったのは、忙しかったからというばかりではない気がする。実際7月のはじめに一度、途中まで書きかけたまま放置していたコラムもあったのだ。確かにこの夏は怒濤の日々だった。でもそれ以上に、自分の心のなかで立ち止まったままだったことがたくさんあって、何をどう書いたらいいのか分からなかったのが大きかったと思う。

今年に入ってからずっと、僕は人生の様々な面において「行き詰まった」感じが続いていて、正直なところかなり苦しかった。原因はだいたい分かっている。去年の夏に十二指腸潰瘍になりかけてダウンしたのが響いてしまっていたのだ。体を壊してから半年ぐらいは、絶対に無理をせず、だましだまし仕事をしていた。それまでのように馬車馬のごとく走り続けるのではなく、ゆったりとしたペースで生活してゆったりとしたペースで仕事をしていた。

僕のようにフリーランスで仕事をしている人間にとって、「今している仕事」というのは、結果的にも収入的にも今すぐに結びつくものではない。たいていの「今していること」は、早くて半年とか1年後、かかるもので5年とか10年ぐらい後に答えが出たり収入に結びついたりしてくるものなのだ。だから、去年の後半は相当仕事のペースをスローダウンさせたけれど、これまでの蓄積があったので年内はまったくといっていいほど問題が生じたりはしなかった。(むしろCDデビューも含めて、それまでの蓄積がいろいろと開花した時期でもあった)。

問題は今年に入ってしばらくしてからである。いろんなことがぱったりと勢いを失ってしまったのだ。ある程度予期していたので表面的にはあまりダメージがなかったが、精神的にはいろいろときつかった。自分の中のいろいろなインプットが足りなくなってしまった気がして、軌道修正するために何から手をつけたらいいのかよくわからなくなっていたのかもしれない。

ミュージシャンになろうと決めたのが20代前半。それからがむしゃらに走って来て、30歳までにミュージシャンとしてやっていける見通しがつかなかったら潔くこの道を諦めようと思っていた。20代をそろそろ終えようといういま、昔から一緒に仕事をしたいと思っていたような人たちといつの間にか仕事が出来るようになったり、世界にそれなりに通用するグループを作って活動する、という目標も達成できた。日本でもアメリカでもCDを出すことができたり、夢に見たステージに立つこともできた。日本のコンテンポラリーなコーラス界に教育が欠如しているから、自分がアメリカで学んだことを還元していきたい、という目標も、日本全国でたくさん呼んでいただいているワークショップや、いつの間にか増えている個人の生徒さんたちを通して想像以上に還元できるようになった。

こうして気づいたら、まだまだ未熟な部分がいっぱいあるくせに、周りから一目置かれる存在になってきてしまった。だいたいやりたいことをひととおりやってきて、それなりにこの業界の仕組みについてもひととおり理解して鳥瞰図をきちんと解読できるようにもなってきた。そしてさあ、次は何だろう!と意気込んでいた矢先に、体を壊してしまったのだ。

振り返ってみて今思うのだが、今年の2月に仕事で訪れた神戸で行きつけの定食屋の親父さんが言っていたひと言が、すべてを象徴していたような気がする。メジャーデビュー後初めて訪れたということもあり、「最近どうじゃい」と聞かれて「去年ようやくメジャーからCDを出せました」と意気揚々に答えたら、「そんなことはええわ。そこまでは誰でも行けるんじゃ。だから、最近どうじゃい、と聞いとんのや。」と問い直されてしまったのだ。

そう。自分でははじめから分かっていたけれど、メジャーからCDを出すところまでは、誰でも、とまでは言わないにしてもかなり多くの人たちができることなのだ。でもそれから長い間第一線に残って、人々から末永く愛されるミュージシャンでいられる人は、ほんのひと握りしかいない。僕が日本に帰るたびに、雑誌に出てくる「アーティスト」たちの顔ぶれは少しずつ変わっている。1年、2年というスパンでみたら、1年前、2年前に雑誌にとりあげられていてまだとりあげられている人たちなんて、少数派なのだ。日本国内で生活している人にとっては気づきにくいことでも、海外で生活していてたまに日本に帰って仕事をしている僕にとっては、その移り変わりの早さが手に取るように分かる。確かにみんな「一時期騒がれるようになる」ところまでは、何かのきっかけをつかみさえすれば行けるものなのだ。でもその後残って行けるのは、心の芯に強く響くような何かを音楽的にも人間的にも持った人だけであり、それは言葉でいうほど簡単なことではないのだ。

おそらく僕も、他の多くの人たちが直面する局面を迎えていたのだろう。アナタハコノママハシリツヅケルノデスカ?ホントウニイチリュウニナレルトデモオモッテイルノデスカ?スローダウンシテミナイノデスカ?ソレトモ・・・?

そんなふうに節目の歳を迎えて、体をいたわりつつ「さあ、どうしようかなあ」と考え込んでしまっていたころに、グループでもいろいろと問題が起こったりして精神的にも肉体的にも大打撃を被り、この夏は本当に本当にきつかった。でも僕はいつも思っている。「試練は、それを乗り越えられる人にだけ与えられるものなんだ」と。だからどんなにきつくても決して諦めようとは思えないのが、僕の性分なのだ。才能なんてかけらぐらいしかない僕にとって、唯一誇れる才能は「諦めない」ことだ。それがあったからこそ、23歳という遅いスタートを切ったミュージシャン人生も、のらりくらりとここまでやってこれたのだと思っている。

そして今回も、「試練」の季節は乗り越えつつある気がする。そして乗り越えた後には、これまでにない、新しくてエキサイティングな局面が待っていそうな気がしてきた。ミュージシャンとして、人として、新しいステージが(局面)。行き詰まっていた2005年だったけれど、もがきにもがいた結果ここにきてようやくいろんな光が見えて来て、いい形で30代を迎えることができそうだ。

まだすべては書けないけれど、近未来に実現することになった、具体的な「収穫」をいくつか書いてみると、こんなことがある。

念願だった日本での編曲集の出版。アメリカでは曲ごとに出版されていて、計8曲が出版されているのだが(年末までにさらに追加予定)、日本では7曲入りの「阿部恒憲(つね)作品集」として、短めではあるけれど「コーラスアレンジ虎の巻」も書かせていただいた編曲集が、日本で10月に出版されることになった。(混声のア・カペラアレンジ集です。みなさん、僕の編曲をどんどん歌ってくださいねー。)

そして、ソロでのデビュー。これは正直なところあまり考えたことがなかったのだが、この夏突然決まって、決定5日後にスタジオ入り。帰米前日までミックスダウンをするという強行日程でレコーディング。11月中旬に日本のレコード会社から、僕のオリジナル曲ばかりが収められたミニ・アルバムが出ることになった。自分にとって通算5枚目のCDになるけれど、ソロでは初めてだし自分でピアノを弾いたのもこのCDが初めて。去年の終わりから弾き語りライブを始めた結果が、少しずつこんなふうに出て来た。

今年始めに取り組んだ「There Is Hope」のプロジェクトは新たな局面を迎え、コンセプトに強く共感してくれた関西の学生さんたちが、神戸の震災10周年イベントを「There Is Hope 」というコンセプトで11月末に開催してくれることになり、みんなでこの曲を歌うというチャリティーイベントの企画が進んでいる。

また、まだ正式には固まっていないのだが、2001年夏にライブとCD発売をした企画バンド「Voice Connection」が来年復活することになり、ライブやCDの話が進んでいたりもして。

Syncopationでは7月に、1万人以上のお客さんが集まる大きな音楽祭「めいほう音楽祭」に出演させていただけたり、今月はボストンの名門ジャズクラブ「Scullers」に出演することになり、これでボストンの名門ジャズクラブはすべて出演できたことになる。来年1月にはIAJE (国際ジャズ教育者協会)のコンフェレンスに、前回の「学生枠」ではなく「プロ枠」で選ばれて出場することにもなった。

そして、ここにはまだ書けない、アッと驚くような話も進んでいたり・・・。

なんだかここに来て急速にいろんなことが動き出している。それらは、一朝一夕に始まったことではない。これまでの蓄積が、ようやく実ってきたのだ。編曲集に収められる中で最も古い曲は筑波大学時代に書いたものなのでまさに7年越しだし(のちに修正を加えたりはしています)、ソロアルバムに収められた曲の中で最も古いのはBaby Boo時代に作った「晴れときどき流れ星」だったりするので、これも6年越し。There Is Hopeは一年前に書いて、当初思っていた形では実現しなかったけれどようやく別の形でいい花の開き方をしたわけだし、チャリティーそのものに関しては、高校時代から取り組んでいたボランティア活動や大学時代に没頭していたNGOで培った精神が、やっと音楽を通してできるようになったのだ。Voice Connectionも、5年前の熱狂とその後の活動があったからこその実現だと思う。こうして、本当に長い時を経て熟成したものが、いろいろな形で世の中に出る。行き詰まっているときはとことん行き詰まるけれど、そんなときもたゆまずもがいていたからこそ、それをきちんと見てくれている人たちがいたのだと思う。

ミュージシャンとしての仕事の中でも作曲家・プロデューサーという意識が特に強い僕は、表に出た「活躍の場」はかなり派手に見えてもふだんの生活や仕事ぶりは極めて地味だと思う。だから友人やファンの方々に「ずいぶん活躍してて、ますますビッグになっていくね」と言われても、実際のところは何も変わってないような気がするし、生活だって楽なわけじゃないのにビッグもへちまもない(笑)、というのが僕の正直な感想である。でも、ここにきてようやく、「あ、新しいステージ(局面)に足を踏み入れようとしているのかもな」とは少しずつ思えるようになってきた。「みんなが行ける」局面をひとつ超えて、何かもっと面白そうなことが、ミュージシャンとして、ひとりの人間として、追求できる支度が出来てきた気がしている。

体調も戻って来たし、決して強くはない体とうまく向き合いながらやっていける要領を得てきた。(「No」をきちんと言えるようになったからかな。)去年後半から、体調を優先した結果アウトプットがインプットより多くなってしまっていたので、これからはまたどんどんインプットをしていこうと思う。決してペースを落とすのでなく、20代とは違う走りで滑らかに、短距離走じゃなくて長距離走をしっかり走れるようになりたいし、その準備は出来ている。

最後に、この夏一番励まされたことを書いておこう。僕が大きな影響を受けている大学時代の先生、秋野豊氏(1998年夏、国連政務官として赴任中のタジキスタンで武装集団に殺害された)の娘さんたちが、7月のSyncopation東京公演に突然来てくださった。彼が亡くなった夏、僕はひとつの曲を書いた。毎日ピアノに向かって、秋野先生を思いながらその曲ばかり弾いていたけれど、作曲の勉強をしたことがなく音楽的にもまだまだ乏しかった僕は、遂にその曲を完成させることができなかった。その曲はピアノを基調に、後ろにはストリングスが鳴っている編成で書きたい。できればミニオーケストラで演奏できるようなものを書きたい。そんな意識を頭の片隅に置いたままいつの間にか7年の時間を経て、僕はこの春ぐらいからオーケストラの勉強をしてその曲を完成させようと思いはじめた。そして、ある取材のインタビューでそんな話をちらっとした記事をたまたま発見して、秋野先生の娘さんたちが僕の存在を知ったのだった。

この夏いろんなことがあって落ち込みまくっていた僕は、テレビでも見たことのあった彼女たちの顔を見て、始め何がなんだか分からなくて、ファンの方達がサイン待ちで行列を作っているというのにひとり放心状態で涙が出そうになり、しばらく立ち尽くしてしまった。今回のツアー、実は直前まで実現が危ぶまれていたのだが、形振り構わず駆け回ってなんとか実現することができた。彼女たちと握手をした瞬間ほど、その努力が報われた、と思った瞬間はなかった。そうだ、諦めなくて、本当によかった。

パンや水のように、音楽は人間が生きて行く上で必要不可欠なものではないかもしれない。でも、秋野先生の名前のように、音楽は人を「豊か」にするためには欠かせないものだと思う。彼女たちの喜ぶ顔を見て、僕は決して諦めてはいけないんだ、と改めて強く思った。彼が亡くなってから10年後にあたる2008年。そのときどの国で生活をしていようと、どんな無名だろうと、あるいは有名だろうと、僕はあの曲を完成させてミニ・オーケストラで演奏させようと思う。おそらく指揮者としてステージに立っているだろう僕は、ミュージシャンとして、人間として、どんな新しいステージ(局面)に立ち、どんなふうにお客さんの心に音を届けようとしているのだろうか。

 

 

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