Dearest Yumiko Matsuoka Young  (11.05.2004)


秋の絨毯 
photo taken by Y. Yamada



7年前の、ちょうど今頃の季節だった。当時カリフォルニアに留学していた大学時代の親友Mと、ミュージカルで北米とヨーロッパを旅していた僕は、VOX ONEという、僕らふたりにとって憧れのア・カペラ・グループのメンバーに会ってみたい一心で、なんのつてもないのに彼らのウェブサイトのウェブマスターにメールをしてみた。そこに、僕はこんなことを書いたと記憶している。

「僕はVOX ONEの音楽に多大なる影響を受けて、これからミュージシャンとして生計を立てていこうと決心しました。いま、偶然にも北米大陸を旅していて、12月にはボストンを訪問することになりました。ひいては、突然のお願いで恐縮なのですが、是非お時間を割いて、僕と、やはりVOX ONEの大ファンで一緒に何曲もVOX ONEの曲を楽譜に起こして歌って来たMに、会っていただけないでしょうか。お伺いしたいこと、それから話をしたいことが山ほどあります。」

誰に届くかも知らず、英語で書いたこのメールに丁寧に返信してくださったのは、のちに生涯の師匠と呼ぶまでの関係になる、松岡由美子さんだった。VOX ONEの創設者でもあり唯一の日本人メンバーである彼女は、僕にとってとても興味深い存在だった。この分野では本場といえるこのアメリカの地で、世界を圧倒するようなグループを作った日本人???22歳になったばかりだった僕は、この、まだ会ったこともないひとりの日本人から届いた返信に、Mとふたりで電話越しに感動のあまり声にもならない声で叫び合ったものだ。

そして初めて会ったその日から、僕も、それから松岡さんも、運命的なつながりを感じた、といったら大げさだろうか。僕が初めてア・カペラを聴いた時の「固まるほどの」感動(あれはJ-WAVEから流れてきた、Boys II Men の「It's So Hard to Say Good-Bye To Yesterday」だったっけ。ちなみにこの曲は、のちに僕が加入し、2年弱ほど活動することになるプロのア・カペラ・グループのオーディションの曲でもあったなあ。運命ですねー、まさに!)と、それから強烈にこの音楽を追求したくなった衝動。そしてその後、アマチュアレベルでは飽き足りなくなり、プロになりたくていつかは留学したい、という夢。それが、松岡さんが「Singers Limited」というグループを聴いて受けた衝撃と、その感動をもとに、遂には国際関係の仕事をやめてまで(このへんも共通してますよね)アメリカに渡った経緯と、奇妙なまでに重なった。こうして、まだインターネットがあまり一般的でなかった時代に、会ったこともない人間とネットを通して会うという、ともすれば危険極まりないことをしてくださった(実際、彼女の旦那さんーーー今では僕とも大の仲良しで、Syncopationのファーストアルバムでもギターを弾いてくれていますーーーは最後まで渋い顔をしていたらしい)松岡さんと僕は、ことのほか意気投合してしまった。そしてその後数日間、バークリーの授業を見せていただいたり(その授業は、たまたまその日欠席していたのですが当時留学していて、のちにVoice Connectionで一緒になった貞國キミさんが受講していたそうです。すごいつながりですよね。)、アレンジを見ていただいたり、いろんな話を聞かせていただいたり聞いていただいたりして夢のような日々を過ごした。

別れ際、彼女が言ったことを、今でもよく覚えている。

「いつか必ず、バークリーにいらっしゃい。また会えるのを楽しみにしているわよ。」

自分にとってつい先日まで神様のような存在だった人にそんなことを言われて「いやあ、お金かかるし。無理ですよお。」なんてイケてない答えをする世紀の大バカ者がどこにいるだろうか。僕はそんな本音は腹のさらに奥の十二指腸のちょい奥ぐらいまでしまいこんで、

「は、は、はあああ、、、はいっ!」と元気よく答えてしまった。

正直なところ、そのときは本当に留学することになるとは思っていなかった。バークリー音楽院の授業は決して安くない(ってか、とっても高い)。海外で生活していくのもお金がかかる。お金持ちの坊ちゃんならまだしも、母子家庭の我が家のように裕福という言葉とは正反対にあるような状況で、しかも既に大学を卒業しようとしているいい「オトナ」に、そんな資金ナンゾを融資してくれる余裕はかけらもなかった。

だから日本に帰ったあと、僕はいろんな可能性を探りながらも、まずは日本で音楽の仕事を始めることを選んだ。オーディションを受け、プロのグループの一員としてスタートを切った僕に、松岡さんは惜しみなく応援の言葉を贈ってくださり、僕がアレンジを無理矢理送りつけるたびに添削してコメントを送り返してくださったりもした。

初めて会うまでまったく知らなかったのだが、実は僕が会った1997年の冬をもって、VOX ONE は解散の危機に瀕していた。とりあえず表面的には「活動休止」という発表をして、実質的には、活動再開の見込みのない暗闇の時代に突入したといっていい。後日松岡さんが話してくださったのだが、あの頃はとてつもなく落ち込んでいて、僕のように彼らの影響を受けて新たな夢を見ている若者の訪問が、とても嬉しく、また励みにもなったそうだ。僕にとっても夢のグループの活動休止は寝耳に水で、本当にショックだったっけ。

時は流れ、いろんなことがあって僕は日本でやっていたグループを辞めることになり、一度は音楽の道を諦めようと思ったものの、お世話になっていたある方のひと言に心を揺さぶられ、音楽をやめずにバークリー音楽院に出願してみることにした。そしてその前に出願していたロータリー財団の奨学金もいただけることになり、ほどなくバークリー音楽院からも合格通知が届き、僕は2001年1月に渡米することになる。

当初の予定は、奨学金が切れるまでの1年間のみ。それが、渡米前の「1日16時間労働」の日々、さらなる奨学金の取得やGrant(日本語でいうと贈与金、っていうのかな?)の取得、キャンパスでの労働やインターネットの仕事、一番の危機のときは大反対する身内に頭を下げて借金をしたりもしながら、ありとあらゆる手段を使ってアメリカに留まってきた。

そんな僕を常に励まし、支えてきたのは、ほかならぬ松岡さんの存在だった。僕に有益になりそうだ、といってはいろんな方々を紹介してくださったり、やはりVOX ONE のPaul Stiller(Syncopationのファーストアルバムを、共同プロデュースしてくれています)などと、数ヶ月に渡ってVOX ONEの楽譜や僕の楽譜を歌ったりする機会を与えてくださったり、危機一髪のところで申請したいくつもの奨学金のために惜しみなく推薦状を書いてくださったり・・・。本当に彼女には生涯頭が上がりません。

そんな松岡さんだったが、Syncopationが成長していくにつれて、VOX ONEが活動停止をして以来あまり表立って音楽活動をしていなかった彼女は、「私なんかもう隠居の身だから」といって「これからは君の時代よ!」なんて弱音を吐くこともあった。でも「一番弟子」の僕としては、そんな松岡さんやPaulを見ていて歯がゆかったし、「もったいない 。あなたたちはそんなふうに隠居しているべき存在じゃないんです。」と事あるごとに伝えてきた。そう、師匠にはいつまでも現役でいてほしい、というのが弟子のワガママでもあり、だからこそ自分の生徒たちには、僕も常に現役の僕を見せていたい、と思ったりする。

ちょっと話が飛んでしまったが、そう、そんなVOX ONE が、遂に復活した。

ほとんど毎週のように、会うか電話で話すかしている松岡さんからは(お互いレッドソックスの話も多いけど!)、その兆候のようなものはここ3年ほどつぶさに聞いていた。だから既に驚きではなかったけれど、今年の2月に、ほんの3曲とはいえ初めて「生で」彼らのパフォーマンスを見たときは、本当に感慨深かった。

そして今日。2004年11月5日。Syncopationがここ数年、何度もライブをしてきたボストンのジャズクラブ「Ryles Jazz Club」で彼らだけの単独ライブ(オープニングアクト付き)が遂に実現し、Syncopation の Jeremyやほかの友人たちとライブに足を運んだ。

初めてVOX ONE のCDを聴いたのが、1995年の暮れぐらいだったろうか。一緒にグループを組んでいた大学の友人Yが、「こんなの見つけたよ。すごいぞすごいぞ」といって持って来た彼らのアルバム。あの衝撃は今でも忘れない。その中の曲を歌いたい一心で、オーストラリアに留学する直前に即席グループを組み、楽譜を耳で聞いて起こし、初めてVOX ONEの曲を歌ったのが1996年の春。

それ以来、彼らの曲はいくつも楽譜に起こし、その楽譜と毎日にらめっこしてアレンジについて独学でいろんなことを学び取り、いろんなグループを組んでは彼らの曲を歌ってきた。

おそらく、満員のRyles Jazz Clubで、僕ほど彼らのアレンジを「一緒に歌える」ようなマニアックな輩なんていなかっただろう。なにしろ、今日彼らが演奏した曲の半分以上は歌ったことがあったし(ちなみに彼らの楽譜は、ほとんど市販されていません)、歌ったことがない曲ですら、聴きすぎていたあまりほとんど暗譜していたぐらいだ。

そんな彼らが目の前で歌い、その中に師匠が「こんな幸せなことはない」とばかりの顔で演奏し、Paul も嬉しそうに軽快なジョークを飛ばす。

初めて彼らの音楽に出会ってから丸9年、そして松岡さんと出逢ってから7年が経とうとしている。僕は彼女と同じように夢を現実のものにし、アメリカで自分のやりたい音楽を奏でるグループを作り、そして3週間後にはメジャーデビューするところまで辿り着いた。

VOX ONEのひとつひとつの曲の素晴らしいハーモニーを聴きながら、 僕は「原点」という言葉を強く感じた。すべては、ここから始まったのだ、と。そしてあとわずかで僕らがデビュ−し、テレビに出たりさらに大きなジャズフェスに出演したり、有名ジャズクラブに出演したり、有名な雑誌に紹介されたり・・・、そんなふうになってきている現実を前に、でもこの思いは決して忘れることはないだろう、と。決して奢り高ぶってはいけないし、そんなふうになることもないだろう、と。

人はどんなとき涙を流すのだろうか。僕は決して涙の数が多い人間ではない。けれど、心から感動したときには、涙が止まらない人間でもある。

2年前、尊敬するジョン・ヘンドリックスのバラードを聴いたとき以来の、音楽を聴いて出た涙は、やはりジョンを聴いたときと同じ、このRyles Jazz Club で今夜流れた。それは、自分がここまで歩いて来た道への回顧の涙であり、これからもっと高いレベルの芸術を作り上げるために歩いていかなくてはならない道のりへの決意の涙であり、そしてそれ以上に、素晴らしい音楽そのものに対する感動からくる涙だった。

歩きはじめたばかりのSyncopationが、こんなふうに人の心を揺さぶれるようになるまで、まだまだ長い道のりだと思う。でも、彼らが決して諦めず今日の復活の日を迎えたように、僕も、どんなことがあってもSyncopationを続け、そして世界中の人達により暖かい何かを届けられるミュージシャンになっていきたいと、強く、本当に強く思う。

 

 

 

追伸:そんな松岡さんと一緒に、11月27日(土)の昼、渋谷のライブハウス「多作」さんで「編曲マスタークラス」を行います。ふたりの溢れる情熱が飛び交う一日になると思います。詳しくは直接多作さんにお問い合わせくださいね!

 

 

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