17歳の僕の夢から (10.16.2004)


僕が育った街の空 
photo taken by ikki yamaguchi ikkiy yamaguchi




高校2年の秋だったと思う。進路選択を目の前にして、僕はいろいろなオプションを探し始めた。自分が国際関係学を勉強したいことは分かっていたから、それに基づいた大学選び。でもただ大学を選ぶだけでなく、その後何をしたいのか、そのためにどこの国のどこの大学で、どんな先生についてどんなことを勉強したいのか、というところまで考えて動いていた。だから非営利の海外留学センターなどを訪れて海外留学について調べたり、いきなり文部省を訪れちゃったり、積極的にボランティア活動に参加して社会との接点を持ったりしていたっけ。

そんなリサーチのひとつとして、当時から国際貢献ということに関心の高かった僕は、「青年海外協力隊」という日本政府の国際貢献事業の説明会にも足を運んだ。といってもまだたかが高校生の鼻タレ小僧の考えることである。「2年間海外の、なかなか行けないような国に行って生活できる。体験できることも面白そう!」なんてことが、動機の80パーセントぐらいを占めていたように思う。「貢献」という、「自分が何を与えられるか」ということよりも、むしろ「自分が何を得られるか」ということのほうが大きかったわけだ。そしてそんな僕がその説明会ではっきりと分かったのは、自分が何かを与えられる人間なんてものからは程遠い、何の専門知識もなく役に立たない小僧でしかない、という事実だった。今から思えば、高校生で国際貢献ができるような専門知識と語学力を持っているような子なんかほとんどいるわけがないのだが、当時の僕にとってこれは衝撃的でショック以外の何ものでもなかった。

 

「オレは何の役にも立たない・・・」

 

数日間ショックに打ちのめされた僕は、けれどこのときはっきりと思った。いつか人に何かを与えられるような、専門知識を持ち合わせた人間になりたい、と。

そう思ったものの、その後何年かの間、僕はどちらかというと「ジェネラリスト」になる内容の勉強をしていたし、いったいどんな専門知識を持ちたいのかよくわからないまま大学時代を過ごすことになる。大学に入ってすぐに、高校を卒業する直前に参加したシンポジウムで出会った、法律家によるカンボジア支援のNGOで活動を始めた。でもそこで活躍する法律家の方たちの「専門知識」の素晴らしさを目の当たりにする度に、自分の無力さに打ちのめされて「ああ、やっぱり国際貢献をするには何かコレ、という強みを持ってないとダメだよなあ」と痛感したっけ。(だから一時期、司法試験の勉強を始めようかどうか、半年近く真剣に悩んだ。結局この道は選ばなかったけれど。)

時が経ち、自分は「国際貢献」という高尚な夢ではなく、(究極的には)自分が一番自然体でいられるから、という理由で音楽の道を選んだ。専門知識がどうこう、ということは一切考えなかった。国際関係の論文を書いている自分より、楽譜を書いているときの自分のほうが自然体だったし、それこそ寝ずに楽譜を書き続けても苦にならないほどのめり込める自分がいたのだ。

その後は、これまでもいろいろとコラムに書いてきたように、いろいろと試行錯誤・紆余曲折しながらミュージシャンとしての道を歩んできた。僕には音楽教育を受けた経験が、誰もが受けるような小中学校での音楽の授業以外一切なかったけれど、そんな僕でもオーディションで選んでくれたプロのグループが存在し、そんな僕に音楽留学のための奨学金を出してくれた財団が存在し、そんな僕を助けてくれた恩師たちに巡り会えた。

そんなふうに様々な幸運に恵まれ、気づいたらもう6年近くプロのミュージシャンとして過ごしている。ミュージシャンの道を選んだ22歳の秋、僕はひそかに「30歳になっても芽が出なかったら音楽の道はきれいさっぱり諦めて、カタギの仕事につく」と心に決めていた。ミュージシャンになりたい、という人は世の中に数えきれないほどいるが、その中で音楽でメシを食って行ける人はごくごくひと握り。そしてその中でも第一線で活躍できる人というのは、さらに少数を極める。そんな中、音楽的バックグラウンドなんてないに等しかった僕がここまで来れたのはほんと奇跡に近い気もするが、とにかく20代も終わりに差しかかった今、この道で少しずつではあるがある程度の実績も残し始め、「音楽の道を辞める」という選択肢は選ばなくて済むぐらいのところまでは、なんとかたどり着けたように思う。

相変わらず大変なことも悩みも耐えないけれど、少しずつ仕事も充実してきて、去年あたりからは本当の意味で仕事が「面白い」と思えるようになってきた。そしてごく最近になって気づいたことがある。それは、「どうやら僕のしていることは専門職であるらしい」ということだ。

みなさんからすると「何をいまさら」「あったりまえじゃないですか〜」なんて言われそうだが、この仕事をはじめたとき音楽について何の教育も経験もなかった僕は、なんとか知識と経験をつけようと無我夢中に走ることに精一杯で、それが「専門知識」といえるほどのものどうかなんて、つい最近まで考えたことすらなかったのである。

いままで自分が雲の上と思っていたようなミュージシャンやプロデューサーの方々が、いまや対等な関係として共に仕事をしてくださっている。大会社の役員の方が、大切な(ミュージック)ビジネスパートナーとして真剣に話をしてくれる。各地で呼んでいただいているワークショップでは、受講生の方たちが本当に僕のしていることをリスペクトして参加し、毎回何かを得て帰っていってくれる。僕よりずっと年齢の高い方たちの多かったビッグバンドのアメリカツアーでは、こんな若僧の言うひとつひとつのアドバイスに、嫌な顔ひとつしないで真剣に聞き入れてくれる・・・。ここ半年ほどの間でそんなことを多く経験しているうちに、17歳の頃「オレは何の役にも立たない」と思っていたアベツネノリは、10年ちょっとの時を経てようやく、ほんの少しずつだけれど、人に何かを与えられるような仕事をしているのかな、と自覚できるようになってきた。(とはいえまだまだ半人前。一人前になるには道のり長く険しいぞ、って感じです・・・。)まだまだ与えられるものはちっぽけだけれど、何もなかった自分から「ちっぽけなもの」を与えられるところまで進めただけでも、僕にとっては革命的な進歩なのである。

大学で国際関係を専攻していたのにミュージシャンになった、と人に話すと、よく「それはそれは。まったく別の分野なのに。」という反応が返ってくる。でも音楽の道を選んだとき、僕は国際関係の道を捨てたわけではなかった。根底にある「伝えたいもの」の根本は何も変わらず、ただ表現方法が変わっただけなのだ。そして、その音楽という表現方法を通して先日、日本のあるビッグバンドのアメリカ公演で訪れたコロラド州デンバーでのコンサートで強く感じたことがあった。充実した本編を終えカーテンコールに包まれて再び舞台に呼ばれた僕は、アンコールの曲を演奏し始めようとするバンドマスターの動きを制するように、この夜歌っていてどうしても伝えたかったその言葉を、音楽ではなく実際の言葉で語りはじめた。日米関係150周年を記念して行われたこの大きなコンサートの客席には、外交官の方々やデンバー市長をはじめ、日米交流に携わる様々な方々がいた。英語で話した言葉だから、日本語にするとちょっとストレートすぎて、ちょっとカッコつけすぎな感もあって照れちゃうけれど、最後に、あの夜僕が発した言葉をそのまま和訳して、今回のコラムを書き終えようと思う。17歳のアベツネノリは、この言葉を聞いていたらどう思っただろうか・・・。

 

「数年前、僕は外交官になろうと思って一生懸命国際関係を勉強していました。月日が流れやがて、僕はひとつのことに気づきました。それは、僕には実際の外交の仕事よりも適した役割がある、ということです。それは、音楽による外交、とでもいいましょうか。それ以来僕は、音楽の道を選び、ミュージシャンとして今日まで生きてきました。今日のリハーサルで、そして本番のステージの上で、デンバーの音楽家のみなさんと(岐阜県)高山の音楽家の皆さんが音楽を通して心の交流をしているのを見て、僕は心から感動を覚えました。今日、この夜、僕はその交流の輪に加わることが出来て心から光栄に思っています。僕が選んだ道は間違っていなかったと思いました。音楽による国際交流。日米関係は150周年を迎えましたが、これからの日米関係が、そしてデンバー市と高山市の姉妹都市の関係が、今夜のコンサートのように心温まる素晴らしい関係を保ち、また発展していけるよう、心から願います。今日は本当にありがとうございました。」

 


コラムトップへ戻る