卒業 (12.21.2003)


 with Phil Wilson, one of my mentor


遂に、この日がやって来た。卒業。12月19日をもって、バークリー音楽院ジャズ作曲科を卒業したのだ。

妙といえば妙だが、バークリーでは年三回入学も卒業もできる時期があるのに卒業式は年に一度しかない。僕の場合も既に5月、卒業式にはきちんと出席しており、あとは9月から始まる秋学期に最後2単位(卒業制作のための作曲個人レッスン)だけ取ればよかったので、実質的には5月に卒業していたようなものではあった。でもいざ実際に卒業となると、やはり格別な思いがある。数日前に卒業リサイタルも終え、無事卒業制作も提出しやっと卒業が決まった学生最後のこの日、僕は今まで通ってきた様々なことをことを振り返って、空を見上げ込み上げてくる涙を感じずにはいられなかった。


ボストンに来て3年が経った。バークリーで初めて授業を受けた2001年1月には、僕はこの大学を卒業できるなんて思っていなかった。僕がもらっていた奨学金は1年間だけのものだったし、それなりには貯めたお金も、学費や生活費の高さを考えるとその後アメリカに残れる日々なんてたかが知れたものだった。

細かく書くことはしないが、考えられる限りのあらゆる方策を練り、そしていろんな人たちの知恵や協力を得て、なんとかもうあと半年、もうあと半年、といつも首の皮一枚でつながっていたような状態だったっけ。でも本当に奇跡的に卒業まで辿り着くことができた。その間、やりたくもない仕事をしたこともあったし、頭を下げたくない人に頭を下げなくちゃならないこともあった。留学生の中にはいわゆる「おぼっちゃま」「お嬢様」みたいな人が多い中、「お金があったらこんなことをしなくてもいいのに・・・」と思ったりしたこともあったけれど、20代後半にもなる大人が自分のやりたい夢を追いかける責任として当たり前のことだと思ったし、好きなことを実現し、確実に一歩一歩前に進んでいるのが自分でも分かったので、自分の置かれる状況を苦に思ったりもしなことはなかった。むしろ、「好きなことをこうして最高の環境で勉強できて、オレはなんて幸せなんだろう」って、卒業した今、振り返ってみてもそう思う。

音楽においても人生に置いても最大の師であるVOX ONEの松岡氏に初めて出逢ったのが1997年の12月。そのときにたくさん話をし、彼女がアメリカに渡った頃の夢と僕が抱いていた夢との驚くまでの共通性に驚いた松岡氏は、以来ずっと「いつかアメリカに来てバークリーで勉強しなさいよ」と言い続けてくれていた。「おいおい、そう簡単にいいなさんな。学費も生活費も、自分でまかなえる領域じゃないもーん」と内心思ったりはしつつ、でも「雲の上の人のお言葉」に思わず「はい、きっといつか!」と答えてしまったあの日から三年後に留学開始。あの頃はまさかそんな早い段階でアメリカに渡ることになるなんて夢にも思わなかった。それからさらに三年経ち卒業できた今、彼女は僕の卒業に目を細めて誰よりも喜んでくれた。こんな師に巡り会えたからこそ今の自分があるのだし、そういう人に巡り会えたのも、本当にラッキーだったと思う。

松岡氏に限らず、この3年間、多くの「師」と呼べる人たちとの出会いがあった。やはりVOX ONEのPaul Stiller氏とは一緒にアルバムをプロデュースしたりする程にまでなったし、スキャットの神様Bob Stoloff氏からは(Syncopationを)「我が子たち」と呼ばれるほどに可愛がってもらっている。ビッグバンドの達人で世界的トロンボーン奏者のPhil Wilson氏からはホーン・ライティングやホーンのリハーサルの進め方をものすごく学ばせてもらった。歌のレッスンを受けていたLisa Thoson氏からは、歌だけでなく生き方そのものすら学んだし、そんな素晴らしい人から「あなたは有名になるから、有名になっても私のことを忘れないでね」なんて笑いながら言われるようにもなった。作曲では世界的にも有名なジャズ作曲界の教育者であるTed Pease氏に作曲の個人レッスンを毎週受け、卒業制作そのもののことだけでなく、歌のハーモニーとホーンとの融合について熱く議論を交した。彼からは卒業リサイタルでの紹介では「私の最も誇らしい生徒のひとり」なんて言ってもらえて、照れくさかったなぁ。

ごく普通に書いてしまっているけれど、ここに書いた人たちは、本当に世界で第一線で活躍してきたり、また今でもしている人たちなのである。そんな人たちの元で学び、時には議論し、3年間を過ごしてきたことは、音楽教育を(小学校や中学校での音楽の授業を除いて)一切受けたことのなかった僕にとっては驚きと感動の連続だった。そして当然、自分の力の足りなさを痛感することも多々あった。

ヤンキースの松井秀樹さんが大リーグにしかない変化球に苦しんでスランプに陥っていたころ、マリナーズのイチローさんと話をしたらイチローさんが「そういう苦しみを味わえるのも大リーグならでは。それもまた楽しいでしょ?」と言った、という記事を読んだことがある。僕はこの3年間、音楽の面でいろんな壁にぶち当たってきたけれど、心から辛いと思ったことはほとんどなかった。壁に立ち向かうたびに感じたのは、まさにイチローさんが松井さんに言ったような感覚だったように思う。こんな苦しみはジャズの本場アメリカで、レベルの高いミュージシャンたちとやりあっているから経験できるんだ、って。だから「なにくそ」って踏ん張ってきた分だけ自分の力になって跳ね返ってきたのがよく分かったし、そうやって壁を越えて来れたことに対する自信は何事にも変えがたい財産になったと思う。

こうしていろんな壁を通ってきて思うのは、20歳から22歳にかけての2年間、僕が悩み続けた上で出した結論は、きっと間違っていなかったんだ、ということである。初めて長期で海外に出たその2年間で、僕は大学卒業後に何をしていくのか結論を出したい、と悩み続けた。外交官か国際関係の分野での大学教授、あるいは国際機関で働くことなど「国際分野での仕事」に進んでゆくのか、それとも「音楽分野での仕事」を目指していくのかという狭間で、どちらにすべきかなかなか決められなかった。当時自分の能力が高かったのは、圧倒的に国際関係の方だった。筑波大学での成績はほとんどAばかりだったし、教授たちからの評価も高かった。卒業生では、卒業後高給取りになっている人たちが多いし、当然祖父母をはじめ家族関係はその道を選ぶものだとばかり思っていたらしい。一方で当時の自分の音楽レベルなんて笑っちゃうぐらい低かったし、教育をまともに受けたこともなく、それで食べていけるかどうかなんてまったく分からなかった。

決め手になったのは、国際関係の論文を書くのが時に苦しい作業だったのに対して、音楽の楽譜を書くのがまったく苦にならない、という自分に気づいたことだ。オーストラリアの大学に留学していた頃論文を次から次へと書かねばならず、それなりにちゃんと書けるし成績も徐々に上がっていったけれど時には投げ出したくなることもあった。でも、同じ時期に大学の音楽学部の施設にあったコンピュータ室で楽譜作成ソフトを独学で覚えた頃、1日18時間ぐらい編曲をしていてもまったく苦に感じなかった。だから、論文を書いていると時計ばかり気にして「早く終わらないかなぁ」なんてよく考えていたけれど、曲を書いているときは「おっと、もうこんな時間だぁ」ってことがよくあった。

だから、自分の音楽に対する能力なんて未知数だったけれど、なんとなく音楽の道に進んだ方が自分に正直でいられるだろう、と思ったのだ。音楽で仕事をし始めて5年、その傾向はまったく変わっていない。音楽そのものではなく、それに関わる人間関係で苦しんだことはあったけれど、音楽そのものでは悩んだり壁にぶち当たったりしても苦に思ったことはなかった。だからこそ成長してこれたのだと思う。卒業制作をまとめているとき、(14曲書かなくてはならないのだけれど)どの曲を卒業制作に入れようかと、昔書いた曲を引っ張り出してきて驚いたことがあった。つい1年半ぐらい前に書いた曲を振り返って「あー、分かってなかったなぁ、こいつ!」って思うようなところが沢山あったのだが、たかだか1年半に書いた曲を振り返っても大きな違いを生んでいるのがよくわかって、「あー、それなりに成長してきたんだなぁ」と、なんだか妙に感動した。そんなふうにして曲によっては昔書いた良さをうまく残したまま、いろいろと書き直したりもしつつ、最終的にまとめた卒業制作の14曲。どれをとっても留学前は絶対に書けなかった内容やレベルのものだし、まだまだ足りない自分ではあるけれど、とりあえずこの3年間の答えは出せたかな、と思う。



いい曲を創る、というのはふたつの要素が必要である。ひとつは、高いライティング能力(技術)を持っていること。そしてもうひとつは、いい感性を持っていること。どちらが欠けてもいいものは生まれないと僕は思う。バークリーで音楽教育を受ける前の自分は、感性は悪くなかったと思うけれど技術の面が圧倒的に足りなかった。その「技術」を獲得すべく必死で勉強を重ね、日々鍛錬を重ねた。その教育課程を終えたいま、僕はやっと本当の意味でのスタート地点に立てたのだと思う。


まだ詳しくは書けないけれど、来年は大きな年になりそうだ。本当の意味でのスタート地点に立った僕は、ミュージシャンとして、あるいは人間アベツネノリとしての力量がより問われていくようになるだろう。だからこそ僕はこれまで以上に全力でぶつかっていきたいし、そこからさらに質の高い、でもしっかりと心のこもった音楽を創っていこう、という思いでいっぱいだ。2004年という年は、より多くの人たちの耳と心に、そんな音が届く一年にしよう。そう強く、強く思ってやまない。