一年という時間 (09.17.2002)
Haymarket, Boston
Photo taken by Tsunenori 'Lee' Abe
NYでのテロから一年後の9月11日、ボストンで僕が過ごした一日は、少なくとも表面的にはごく普通に過ぎていった。日本での公演を終えて帰米してから、まだ三日目。時差ぼけの残る僕は昼近くまで寝て、午後から次の大きな公演の打ち合わせをするために、地下鉄に乗って友人の家へ向かった。正直なところ、テレビを見ないうえにこの数日間電話の配線トラブルでネットすら見れなかった僕は、打ち合わせの帰りに、電車の中で「I
Love New York」のTシャツを来た人に遭遇するまで9月11日のことはすっかり忘れていた。
去年の9月11日だって、実際に事件が起こったことは、日本の姉から電話がかかってくるまでまったく知らなかった。でもあの一日が恐ろしい一日で、しばらくは飛行機の音ひとつひとつにびくびくしていたし、事件後のナショナリズムの高まりを目の当たりにして、外国人としてこの国に暮らすことの大変さを身にしみる毎日だった。
プロパガンダ。
第二次大戦中の日本やドイツ、そして冷戦下のソ連から現在の北朝鮮まで。情報統制下にある状態というのはこれだけ恐ろしいことなのか、と思いつつ、そんなことを口に出そうものならとてつもなく大きなバッシングを受けるだろうことは、容易に想像がついた。そして、外国人としてこの国に住む僕にとっては、またテロが起こるかどうかということよりも、アメリカという国がナショナリズムに高揚することのほうがはるかに怖かった。
あれから一年。この国は変わったのか。世界は変わったのか。
変わったのは確かである。でも正しく言うならば、変わったというよりも、隠れていた牙がいきなり見えてしまったようなもので、アメリカのあり方も世界地図も、冷戦が終わってからは今目に見えている方向に間違いなく向かっていた。ただ、テロ以前より圧倒的に鮮明になってきただけだ。アメリカによる一極支配(パックス・アメリカーナ)。そしてそれに味方する者、しない者。「しない者」は容赦なく攻撃され、曖昧な立場をとる国にも警告じみた発言が飛び交う。アフガンもイラクも散々叩かれてきたし、北朝鮮は路線変更を強いられてきている。
アメリカ合衆国はよりわがままになり、世界は(少なくとも思想の面では)より住みづらくなっている。
僕もそのわがままな国に外国人として住んでいるわけだから、住み心地がいいわけがない。このテロ事件について自由にモノなんて言えないし、去年なんて、真珠湾攻撃のことをテレビやラジオで散々言っているのを聞いて、なにをいまさら、とかなり不愉快な思いをした。
まったく関係ないことかもしれないが、電話会社のサービスなんて本当に一方的で最悪だし、アパートの大家だって同じだ。とにかくカネ、カネ、カネだし、力(=カネ)のある者とそうでない者が本当にはっきりしている。この国の保険や福祉のシステムを見ていればよく分かるが、極論すればカネのない者は死ね、とでも言わんばかりの勢いだ。そんなことまで、テロの後は以前よりさらに気になるようになってきた。まあそういう個人レベルのことは、ちょっと感情的になってしまうんだけど。こういったことは9月11日によってそうなったわけではなく、昔からそうなわけだし。でも、こういう日常を経験して間の辺りにしていると、9月11日のテロがなぜ起こったのかが、理屈抜きでよく分かる気がするのだ。
そんな住みづらい国でなぜ、今も住み続けるのか。
先週の金曜日、僕はボストンのあるジャズクラブに、ジョン・ヘンドリックスを観に行ってきた。81歳になる彼は、ボーカリーズという、ジャズの有名なソロに歌詞を加えて歌う、というスタイルを発展させ確率させた偉大なるジャズ・ミュージシャンである。チャーリー・パーカーがBe
Bopの一時代を築いていたころ、パーカーを取り巻き、共に一時代を作っていたミュージシャンの輪の中に、ジョンもいた。そんなジャズの巨人たちがここ十年ぐらいで次々に亡くなっているが、ジョンはその最後の生き残りともいえる中のひとりなのだ。
大学五年のとき、東京のブルーノートにバイブ奏者のミルト・ジャクソンが来たが、お金がなくて「またそのうち行けるさ」と諦めたことがあった。その数ヵ月後、彼が亡くなったと聞いたとき、心から後悔した。無理をしてでも行けばよかった、と。
そんな思いがあったからこそ、ジョンのライブは逃すわけにはいかなかった。休憩を挟んで計三時間にもおよぶライブ。彼お得意のボーカリーズやスキャットに圧倒されながら、でも一番感動したのは彼の歌うバラードだった。不覚にも大粒の涙が出てしまった。感動して涙がじわ〜っと出ることはよくあるが、粒で涙が流れ落ちるほど感動したのは、これまで生きてきた中でも本当に数えるほどしかない。
彼の声に往年の張りはなかったけれど、この日の彼を見ていて歌はストーリー・テリング(物語り)なんだ、と実感した。彼の言葉ひとつひとつがダイレクトに心を打って、その世界に惹きこまれる自分がいる。そして、彼が初めてNYに移住した頃、パーカーを訪ねていったときに出会ったというドラム奏者もその日のコンサートに家族を連れて聞きにきていたりして、ジョンが彼を紹介すると会場内が拍手で沸いたりした。(ちなみにこの人もジャズの巨人のひとりで有名なドラマー)
この夜、このジャズクラブに流れていた空気。ステージでジョンの話す、古き良き時代の実話。そしてジョンの歌う言葉。そこには、歴史の浅い国アメリカの、けれど重みのある歴史の一ページがあった。アメリカ文化としてのジャズが、まだポップカルチャーの中心にあった時代。アメリカが、社会的に様々な問題をかかえつつも、もっとも文化的に輝いていた時代。何かを作り上げる、エネルギーに満ちていた時代。
僕がアメリカに対して複雑な思いを抱きつつも住み続ける理由は、いまも節々に発見できるこの空気が好きだからなのかもしれない。それが幻想なのか、今も本当に残っているのかは分からない。でも僕はジョンのステージに、確かにこの空気を垣間見た気がする。
ジョンの言葉には、テロのことも、平和だとかも戦争だとかいうようなこともなかった。そこにはただ、愛があり哀しみがあり、そして笑いがあっただけである。彼は「Jazz」を歌っていたのではなく、「Life」を歌っていた。ジョンが現在のアメリカをどう想っているのかは分からない。81年の彼の人生の間、この国は常に変わりつづけてきた。その中に変わらないもの。それが彼の音楽に対する姿勢であり、作りあげるひとつひとつの音なのかもしれない。それが彼の「Life」そのものなのだ。
9月11日はまた来年も、そして再来年も訪れる。その頃僕がどんな音楽を作っているのか皆目見当もつかないが、年月を経て、少しずつ少しずつ、ジョンのような味のある言葉(ボキャブラリー)で音楽を作っていけたら、と思わずにはいられない。そんなことを考えた、2002年の9月。