走るということ。また違う走り方をするということ。 (8.11.2003)
Photo taken by Tsunenori 'Lee' ABE
8月も折り返し地点を目の前に迎え、夏も残りあと僅かとなってきた。ボストンの季節は一応四季があるということになっているものの、実質的には冬と夏しかないような気すらする。5月の終わりあたりから夏が始まり、11月には冬に突入してしまう、まあ、5月はなんとなく春っぽかったり、9月から10月にかけてはなんとなく秋っぽかったりはするけどね。
とにかく、アメリカに帰ってきた6月中旬には、もう既に「夏」って感じがしてたし、僕の中では既に夏に入って2ヶ月ぐらい経った感覚があり、そしてもうその夏もあと僅かで終わってしまう、という感覚がある。
この夏は、これまで生きてきた中で一番早い夏だった気がする。そして、一番何もしなかった夏だったかもしれない。
今年に入ってから、僕は全速力で走りつづけてきた。Syncopationのファーストアルバムのレコーディングがあり、日本ツアーがあり、それらを含めてSyncopationが、そして自分自身もミュージシャンとして大切な成長期だったのだ。いや、もうちょっと遡って考えてみれば、大学を卒業してからの4年半、僕は止まることなく走り続けてきたのだと思う。ギアを高速にして、ブレーキもほとんど踏まずに。
大学を出てからひと月の間、僕は「プータロー生活」を送っていた。あるミュージカルのボーカル・インストラクターに応募して、結果を待っていたのだが一向に返事が来ず、でも一度ミュージシャンとして生きていくと腹を括った僕はなぜか異常に楽観的で、周りの友人たちが社会人として働きはじめている中、毎日曲を書いたりぼんやり過ごしたり、旅行に出かけたり。大学時代、大学生なりに忙しく走り回っていた僕にとって、そんな時間が新鮮でもあり、貴重でもあった。
そんなゆとりがあったからなのか、世の中はうまくできているもので、ふと大阪の友達のところに遊びに行ったときに、Baby
Booのオーディションのことを知り、Baby Booの「べ」の字も知らなかった僕は友人に無理やり押されて電話をし、その日のうちにメンバーと会って、次の日に大阪駅の構内でオーディションをすることになった。
結果はご存知のとおりで、その後Baby Booの一員として1年半余りを過ごすことになったわけだが、本当にタイミングがよかったんだなぁ、と今振り返っても思う。お世辞にも上手いとはいえなかったBaby
Booに、お世辞にも上手いとはいえなかった僕。将来性も何もわからない、なにしろたった数時間前に知ったばかりのグループに「就職」、しかもわざわざ未知の地神戸に移住までする、という決断に、家族は卒倒直前で大反対どころの騒ぎじゃなかった。
こうして始まった僕のミュージシャン生活は、ワン・ルーム、クーラーなしのアパートに、ろくに家具すらない、という有り様。超一流大学の中でも難関の学部を出ておきながらなにやってんだ、とこれまで暖かかった祖父母は勘当同然のまなざしで僕を見るようになった。そんな中3ヶ月目の給料が出たときに初めて、当時付き合いかけていた女の子と本棚を買いに行き、部屋に本棚を設置したとき、ふたりで思わず泣きそうになったっけ。でもやたらと楽観的だったし、なんだか辛いことも多かったけれどすごく楽しくもあった。若くて何も知らないという強みなのだろう。無茶を承知で突っ走ってたけれど、それが苦痛ではなかった。
当時の僕みたいに音楽の教育を受けたわけでも過去にプロ経験があったわけでもない無名な存在にとって、いきなりそれで生活できるようになっただけでも幸運中の幸運だった。でも、だからこそ人一倍努力しなくちゃいけない、と思ったし、なにしろ貧困の中実家に仕送りまでしていたのだから、なんとか音楽の世界で生計を立てていかなくちゃならない、という重圧感がリーダーとともにグループのほかの誰よりも強かった。そしてそれが故に無我夢中の日々を過ごしていたっけ。
時が経ち、留学を決め、教育をつけて世界に通用するミュージシャンを目指しはじめたとき、これもまた本当に大きな賭けだったと思う。収入もだいぶ増え、注目も集めつつあったBaby
Booを去ることは、普通に考えたらもったいない決断だったろうし、のちに彼らがメジャー・デビューしたときは、まわりからは「どうしてメジャー・デビューするようなグループをやめたの?」って聞かれることも1度や2度ではなかった。
そこまでしてまた自分を振り出しに戻したのは、もっと上を目指したかったのと、自分のやりたい音楽に忠実でありたかったからだった。Baby
Booをやめた理由はもっと深いところにいろいろとあって、ここに書くようなことではないので控えるけれど、結果として奨学金をもらえ留学をすることになったとき、正直いって特に何か勝算があるわけでもなかった。奨学金は1年間だけだったから、その後食べていけるかどうかなんて分からなかったし、アメリカに1年以上いられるかもまったく分からなかった。ただ、一度は諦めかけた音楽の道に、もう一度正面からチャレンジできる喜びと、遂に教育を、しかも自分が夢見ていた大学で受けられることの喜びは、とてつもなく大きかったし、身震いするのほどの興奮をもってアメリカの地に渡った。
グループに守られて音楽活動をする、というのは、ついミュージシャンとして甘くなりがちなところがある。実力もないのにイキがっていた23歳の僕は、もしミュージシャンとして個人で活動していたらとてもじゃないけどそれでご飯を食べていけるような器ではなかった。グループから出て、きっと厳しいだろうな、とは思いつつ、一緒によく仕事をしていた友人に「5人の中でも、つねくんはバンドが解散してしまうようなことがあってもきっとやっていけると思うよ」って予言されたとおり(今思えば、何を根拠にそんなこと言ってくれたのか、よくわからないですけどね。あはは。)、その後もふらりふらりと、なんとかやってきた。もちろん多くの人の支えがあってここまで来たわけで、僕の力だけではどうにもならないようなこともいっぱいあった。けれど、ひとり立ちして3年が過ぎようとしている今、ひとりの僕は胸を張って「職業はミュージシャンです」といえる。グループに所属しているからではなくて、ひとりのミュージシャンとして、「僕はこんな音楽を創っています」と語れる。
ただ、いま振り返ってみても、そこに至るまではやばいほどの努力をしてきたように思う。あまり「頑張ってきました」とか言うのって、柄でもないし好きじゃないけれど、もし他の人が僕がやってきたことと同じほどのことをしていたら、素直に「おまえすげぇなぁ」って驚いていたと思う。アメリカに渡って2年半。この短期間にここまで成長してここまでのことを成し遂げるなんて、夢にも思ってなかった。Baby
Booの一員として歌っていた3年前の夏、僕はいま一緒にやっているミュージシャンたちとはまったく別世界に住んでいた。あの頃、いまのミュージシャン仲間に会っていたら、相手にもされなかったと思う。それほどあの頃の僕は未熟だったともいえるし、自分がかなり成長した、ともいえるだろう。
こんなふうに走ってきた4年半、遂に僕はパンク寸前だったのかもしれない。兆候は出始めていた。なんとなく行き詰まって曲が書けなくなったり、ストレスで恋人にイライラをぶつけてしまったり、アレンジのしすぎで腱鞘炎になってしまったり。だから、日本ツアーとその後の個人的な仕事を終えてアメリカに戻ったら、思い切って夏は何も予定をいれずにのんびりしてみよう、とツアー前に心に決めたのだった。日本から帰ってきて、しばらくあまり時間を割いてあげられなかった恋人といっぱいの時間を過ごそう、という計画は失恋で見事に砕け散ったけれど、その後ひと月あまり、文字通りほとんど仕事をしないでゆっくり過ごした時間は、僕に一番欠けていた何かを取り戻す、貴重な時間になった。
立ち止まってみないと、分からないことがある。
多くの友人たちとご飯に出かけたり、遊んだり。いっぱいいろんな人たちと話をして、仕事がらみじゃなくて音楽やミュージカルなどにも触れて素直に感動したり。最近気づいたのだけれど、思えばこの数ヶ月、道でふと会った友達と1分以上立ち話をしたことすらあまりなかったかもしれない。いまは道で友達に会ってついつい話をしていたら30分ぐらい経っていた、なんてこともある。大切なのは、30分友達と話したことじゃなくて、こんなことができる心のゆとりだったのだろう。人を思いやる気持ちは、こんなゆとりから生まれるのかもしれない。そして、人に伝えるべき音楽は、こんなゆとりが寄与する部分も大きいだろう。
時間をかけて自分を見つめ直し、自分にとって大切な人たちのことを見つめ直し、仕事についても見つめ直し、そしていまようやく思える。
「そうだ、また走ろう」、って。
失恋してしばらくは、毎日のように自分を責め続け、走ることはもうやめようとすら思った。でもそれは違うってことに、しばらくしてから気がついた。恋愛は相性なんだし、これまでの自分の生き方を真っ向から否定するのは間違っている、という当たり前のことにちゃんと気づいた。いけなかった部分は反省して軌道修正すべきところはきちんとして、でも、これまで音楽を世に提供し、世界のいろんなところで人々の心に何かを届けてきた自分を、きちんと評価してあげることも大切なんだと思う。
そんなふうにこの夏、僕は音楽との関わり方を再構築するべく模索してきた。音楽を愛している、という表現は、僕にとっては完全にはしっくりこない。音楽は既に僕の一部であり、僕そのものになりつつある。だから、音楽を愛しているということは自己愛的なところもあるし、音楽と今後どう関わっていくか、ということは、自分自身とどう関わっていくか、ということでもある。
僕はいまの自分の音楽的レベルに決して満足していないし、まだまだゆとりを持って生活していけるだけの収入があるわけでもない。もっともっといい音楽を創りたいし、表現したいこともたくさんある。自分が今はかなわないと思っているような世界一流のミューシャンたちと一緒に仕事したり、世界各地のジャズ・フェスティバルに招待されたりするようなレベルのグループにしたい、と思ってはいるものの、そこまでの道のりはまだまだだ。
そういった願いを実現するには、これまで頑張ってきたように、人一倍の努力をしなくちゃならないんだと思う。そしていま、またそういう力を注ごう、ときちんと思えるようになった。また正面から、音楽ときちんと向き合っていこう、と思う。休養十分。またしばらく走れるだけの燃料は蓄えられたんじゃないか、って思う。
その上で思うのは、これからはきっと、いままでとは違った走り方が出来るようになるだろう、ということ。もうちょっとギアの入れ具合を工夫してみたり、ときには車を止めて海を前にわけもなく午後を過ごしてみたり。そして大切な人たちをきちんと大切にしながら。やみくもに走るのではなく、走りながら、でももっと人間らしくありたいと思うし、きっとそう在れるんじゃないか、って気がしている。
そんな男の創り出す音楽が、いままでよりほんの少しでも、より心の深いところに届いたらいいな、と思ってやまないし、ミュージシャンとしてそんなふうに歳を重ねていきたい。そんなことを考えた、2003年の夏。辛かったりもしたけれど、こんな夏も悪くなかったな、って思う。