出来ないということ (07.26.2004)


7年ぶりのメコン 
photo taken by Tsunenori 'Lee' Abe




あれは高校二年の秋のことだ。中学校三年時の担任でもあり野球部の監督でもあった酒井先生を訪れ、早稲田高校野球部を辞めたことを報告した僕は、恩師の意外な答えに一瞬言葉を失った。「よかったな、阿部。それでよかったんだよ。」

野球から離れようと決めたのは、高校二年になるかならないかの頃だった。大学で国際関係を勉強したかった僕は、おぼろげながら行きたいと思っていた大学のレベルと自分の学力のあまりの差に気づき始めていた。「いつまでも部活に精を出してる場合じゃないな。」そう思い始めたのが、野球を辞めようと思った一番の理由だった。(僕が通っていたようないわゆる「進学校」では二年の夏か秋の大会で部活を退く、というのは比較的一般的なことでもあった。)でもそれと同時に、残された高校生活を野球だけに注ぐのではなくて、もっといろんなことを経験したいと思い始めていたのも大きかった。ちょうどある保険会社が主催する日米間の高校生交流プログラムの派遣生に選抜され、夏の渡米に向けてやはり選抜された他校の個性的な仲間たちとの共同作業を通していろいろなことに興味の幅が広がっていた時期でもあった。

野球を始めたのは小学校五年生のときで、僕は決して野球がうまい方ではなかった。でも夏の大会を最後にやめる、と決めたからにはそれまでの間は野球に全力で取り組んで悔いのない高校球児生活を終えたかった。その全力投球が功を奏したのか、二年のはじめ頃から僕は、やたらとバッティング能力があがって、練習試合ではチーム一の打率をあげるようにまでなった。小学生以来のレギュラーナンバー、そして甲子園に行けるようなチームではなかったけれど、憧れの神宮球場での都大会出場は、僕の野球人生を締めくくるのにはもってこいの目標だった。

けれど人生そうそううまくはいかないものである。都大会登録メンバーを監督が発表する直前の試合で、僕は二度目の右肩脱臼という大怪我を負い、既にひと月半後に迫っていた都大会で野球が出来る体ではなくなってしまったのである。人前を憚らず泣きつくし、僕の高校野球は終わった。そしてそれは、レギュラーナンバーで高校野球をする、という夢に破れた僕に、小さな悔いを残した。

だから僕は、酒井先生に報告する日、「先生はさぞかし残念がるだろうなあ」と思って中学校の門をくぐったのだ。そんな僕の予想とは正反対のすがすがしい顔で、先生は冒頭の言葉の後、こんなふうに続けた。「オレはな、おまえはいつか久米宏を超える男だと思ってたんだ。そうやってアメリカに行っていろんなものを得てきて、これからが楽しみじゃないか。おまえが野球なんかに縛られて高校時代をそれだけに費やしたらもったいねえ、って、おまえが高校に入って野球部に入りましたって言いにきたときから思ってたんだよ。」

久米さんは当時、ニュースステーションというニュース番組がニュース番組としては異例のヒットを続け、評価もうなぎ上りのキャスターとして世の中を風靡していた。中学校を卒業するころ「将来はジャーナリストになりたい」と言っていた僕が、先生の目には久米宏とだぶったのかもしれない。中学時代、ベルリンの壁が崩壊し、東欧で次々に革命が起こり、人々が歓喜に包まれる姿を、僕はニュースステーションを通して目の当たりにした。その大きな衝撃が、僕を国際関係の分野に突き進ませたと言っても過言ではない。

中学校で野球をしていた頃、僕はほかの仲間たちと比べて野球が圧倒的にヘタくそで、エラーしたり三振したりばかりしている自分が歯がゆかった。僕の守っていたセカンドには、のちに日本ハムファイターズに入って新人王をとった金子誠という友人がいて(ついでにいうと彼は、のちにニュースステーションのスポーツキャスターと結婚しちゃったんだよね。)、僕は彼がピッチャーをするとき以外はいつもベンチ。彼がピッチャーをするときも、ほかにふたりもいる同じポジションの補欠だったチームメートと代わる代わるの出場、という状態だった。

ただ、今思えば僕は野球がうまくなくてよかったんじゃないか、と思っている。負けず嫌いの僕は死ぬほど練習したし、死ぬほど練習しているのがみんなにバレるのが嫌だったから、誰もいないときを見計らって、後輩とコツコツ練習を積んだりしていた。それでもいっこうにうまくなれなくて、友人からは「おまえはほんとヘタだなあ。」なんて言われっぱなしだったけれど。

こんなことを書くとイヤミっぽくなってしまうかもしれないが、中学生当時、僕は学校の成績がよかった。成績はいつもたいてい「オール5」かそれに近い結果だったし、校内テストでもたいていは一番だったり、悪くても五番以内だったりした。そしていろんなイベントでクラスや学校の中心になったりして、ともすれば「いつも目立ってる憎たらしいやつ」で、弱い者の気持ちのわからないやつ、なんて陰口を叩かれかねなかったと思う。でも、野球がヘタだった僕は、「あいつは勉強できるけど野球はオレのほうがうまいんだ」なんてよく言われたし、僕は悔しかったけれどそれを聞いて一緒に笑ったりできる自分もいた。自分が野球において「弱者」だったので弱い者の気持ちは痛いほど分かったし、勉強ができてしまうことに対して、変なエリート意識もまったく芽生えなかった。

結局僕には野球の才能がなかったので、その道で生きていこうなんて考えもしなかったが、ヘタだからこそコツコツと頑張る、という姿勢を学べたことはのちに、生きていくうえでのとても大きな力になっているように思う。

話がとても遠回りになってしまったが、なぜ僕が野球ができなかったことをこうして説明してきたかというと、それが僕の音楽の原点のひとつにある、と強く思うからである。

はっきり書くけれど、僕には音楽の才能なんてたいしてない。音楽において僕は、明らかに「天才型」ではなくて「秀才型」。英語でいうと「talented」かもしれないけれど「gifted」ではない。だから、コツコツと努力し始める前の自分の音源なんて聞けてもんじゃないし、のちにこうして音楽でご飯を食べて、メジャーデビューすることになるなんて夢にも思わなかった。中学生ぐらいのときから独学でピアノを弾きはじめ、以後誰に習うこともなく家のピアノを弾きまくって、ピアノがある程度弾けるようになったらそれに合わせて歌いまくったりもしてたけど、よく母や姉から「あんたのピアノはうるさい。なんとかならないのか。」とか「へったくそなんだから」とか言われたりしていた。その度にツネ少年の心は傷ついたりしていたのだが、当時は「趣味なんだからいいんだもんねー」、と開きなおってたっけ。

だいたい、ミュージシャンになろう、と思ったのが二十二歳のときである。しかも、まるで音楽の教育なんて受けたこともないのに。高校時代に一緒に歌っていた野球部仲間の西元寺(Saigenji)なんか、当時から「オレは将来プロのミュージシャンになるんだ」なんて言ってプロの人たちと一緒に音楽したりしてたのに、その頃僕は「外交官になろうか、教授になろうか」なんて言ってた。だから一緒に歌っていても明らかに差はあったし、でも音楽で生きていこうなんて夢にも思わなかった僕にとって、それは特に気になることではなかった。

スタートがこんなに遅いというのは、ミュージシャンとして致命的なことが多いのだけど、若さというものは本当にすごいもので、僕はこの無謀さに気づかず、二十二歳の僕は大学を出たら音楽で生きていきていこうと心に決めていた。はじめの二年こそ、なんとなく受けたオーディションに受かって入ったプロのグループで奇跡的にも音楽で生活していけたけれど、そのグループを抜けてアメリカに渡って、僕は本当に裸になることの意味を、全身で痛感することになった。

「オレは、なんてヘタなんだ。」

これがアメリカに渡って一番始めに思ったことだった。はじめに入った理論の授業では、まわりの生徒たちがてきぱきと先生の質問に答えているのに対して、僕の頭の中はちんぷんかんぷんだったし、歌の授業でも自分のヘタさ加減に泣きそうになることもしばしばだった。だいいち、いままですべて独学でやってきた僕には基礎というものが何にもなく、唯一誇れるのは誰にも負けない(と思っていた)「やる気」ぐらいなものだった。

以来僕は、少年時代に血豆が何度も潰れるほどバットの素振りをしたように、ボールが見えなくなるほど暗くなるまでスローイングの練習をしたように、四六時中音楽の勉強をするようになった。その「なにくそ」と取り組む姿勢は似ていたけれど、違うのは少年時代の僕が「食べていく」ということに何の心配もしていなかったのに対し、大人になった僕は「うまくならないと食べていけない」と、人間の生存の根源に関わる心配をしなくてはならなくなっていたことだ。

その甲斐あってか、アメリカに渡ってやっと自分のグループ(Syncopation)を組んで活動できるようになったけれど、Syncopationで歌いはじめ、特にメンバーチェンジをしてからの二年の間は、僕はいつもほかの三人のうまさに圧倒されてきた。彼らのうまさを目の当たりにするたびに、「オレはなんてヘタなんだろう」って思ったし、ほんと何度も落ち込んだ。

一緒に演奏するバンドだって、ほんとうまい人たちといっぱいやってきたし、楽譜を持って行ったのに彼らの要求に応えられず、ブーイングを浴びたことだってあった。その度に「どうしてオレはこんなダメなんだろう」って思ったし、自分の力のなさにほとほといやになったことも数えきれないほどある。

でも、だからこそいつも「なにくそ」と思ってがんばってきた。ヘタだからこそ、うまい人の何倍も努力しないとそれに追いつけるはずがないじゃないか。そう思って、人が八時間音楽に時間を割くのなら僕は八時間一分割くんだ、という気持ちでやってきた。Syncopationのメンバーだって、そりゃあいっぱい努力しているけれど、はっきりいってもとから持っているモノが違う。三人ともバークリーで勉強をはじめるまでスキャットの勉強なんかしたことはなかったし、それでも既にプロレベルのスキャットを十分にしていた。(彼らは勉強しはじめてからさらにとんでもないレベルまでたどり着いちゃってます。ほんと出発地点の違いをほとほと感じさせられますよね・・・。)あるメンバーなんて、「歌の練習なんてしたこともない」って言ってるのに(謙遜じゃなく本当だと思う)僕がどんなに練習しても追いつかないほど歌がうまかったりもする。

こうして才能豊かなうまい人たちに囲まれ、コンプレックスを常に持ちながら格闘し続け、気づいたら今、尊敬するミュージシャンたちと共演して作り上げたアルバムで、デビューを目の前にした自分がいる。

はっきり言っていまでも自分はヘタだと思っている。でもだからこそ努力は怠らないし、「どうしたらうまくなれるか」という工夫、「どうしたらユニークであれるか」という発想は、常に欠かさず生きて来ている。そして思うのは、「もともと自分がヘタじゃなかったら、ここまで来れなかったんじゃないか」ということである。コンプレックスがなかったら、たいして努力もしなかっただろう。才能があっても努力や工夫を怠って潰れていく人たちが多い中、それを怠らずに来たから今こうして音楽で生活をし、自分のやりたい音楽をたくさんの人に届けられるようになったんじゃないか、と思う。自分がヘタだからこそ、出来ないことの気持ちがよくわかるし、同じように「自分はヘタだ。だから学びたい」と言ってくる生徒さんたちに、「なぜ出来ないのか」という視点から、自分の時間の許す範囲で知識をお裾分けすることも出来るようになったんだと思う。

最近いろいろとお世話になっているピアニストの小曽根真さんに、先日仕事で一緒になったときにこんなことを言われた。

「君は二十八歳だけど、ジャズを始めたのはまだ三年とか四年前なんだろう?だったら君は二十八歳じゃなくて、まだ三歳か四歳なんだよ。まだまだ学ぶことはいっぱいある。まだまだいっぱい成長できるはずだよ。」

いまも、出来ないことはたくさんある。というか、出来ないことだらけだ。小曽根さんがジャズを始めてから、いま「四十歳」だそうだけど、あと三十六年の間に、今の小曽根さんの境地に達せられるように、「出来ない僕」を少しずつ「出来る僕」にしていけたら・・・。そんなふうに思うし、だからこそ「血豆が潰れるほどの素振り」を欠かさずにこれからも生きていきたいと思う。

 


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